やっちゃ場通(元やっちゃ場 南詰)

マーカーはカメラ位置です。

やっちゃ場通(元やっちゃ場 南詰)
[千住市場史によりますと、創設は天正4年(1576年)の頃まで遡るとされています。徳川家康江戸入府により、文禄3年(1595年)隅田川千住大橋が架けられた。この千住大橋は東京で最も古く、大橋架橋によって千住の地が東北地方への起点の地として、目覚しい発展を遂げていった。下って享保年間(1720年時代)、千住・神田・駒込は江戸三大市場といわれ、幕府御用品調達の命を受け卸売市場となりました。当時は相対売でセリを行ったのは千住だけでした。千住市場のことを「ヤッチャバ」といいますが、それは*投師達が立会うセリ声が威勢よく「ヤッチャイ」、「ヤッチャイ」と聞こえたことから、「ヤッチャ場」といわれるようになったそうです。
(※投師とは市場の問屋で仕入れた品物を他の市場へ転送して商売をしている人を言います。)  (「東京北足立市場」より)]

[河原町の日光街道沿いにみられた青物市場 千住青物市場は、『やっちゃ~、やっちゃ~(やっちゃい、やっちゃい)』との掛け声が聞こえたことから通称「やっちゃ場」と呼ばれた。河原町は、かつて青物や川魚、米穀の市場が栄えた所であった。「千住の市場は、卸売市場として発展してきました。特に、野菜を扱う青物問屋が集中した千住河原町一帯は “やっちゃ場”と呼ばれました。街道沿いに敷かれた石畳と重厚なつくりの問屋建築が特徴であり、取引金額や数量、敷地面積のどれをとっても東郊最大の規模と賑わいを誇りました。商品は競売(セリ)によって取引され、 投師(なげし)と呼ばれる、仕入れた荷物を他の市場で 売る人たちが活躍しました。“やっちゃ場”の問屋の様子は、足立区立郷土博物館で復元しています。現在、やっちゃ場の通りには、旧問屋の屋号や商売をあらわす看板やプチテラスがあり、往時の様子を伝えています。 」(平成25年、足立区立郷土博物館作成のパネル展「千住歴史大全」より抜粋)   (「『千寿七福神めぐり』 – NPO法人越谷市郷土研究会」より)]

やっちゃ場南詰の碑(千住) – Google Map 画像リンク」、「やっちゃ場通り – Google Map 画像リンク」  

カメラ北北西方向・コンクリート壁に看板が設置してあります。

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