五兵衛新田新選組屯所(観音寺)

マーカーは観音寺です。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図の五兵衛新田右の「卍」が観音寺です。

五兵衛新田新選組屯所(名主見習金子健十郎屋敷)
[慶応4(1868)年3月13日の夜から4月1日までの19日間、近藤勇(こんどういさみ)と土方歳三(ひじかたとしぞう)に率いられた新選組の一隊が、五兵衛新田(ごへえしんでん・現足立区綾瀬周辺)に屯所(とんしょ)を設けました。
3月13日夜に到着した時、人数は48名でしたが、土方が到着した15日に100名を越えてから急激に増加し、4月1日には227名に達しました。このため、五兵衛新田名主見習金子健十郎の屋敷では収まらず、村内の新宅、滝次郎宅と観音寺の3か所へ分宿させました。
屯所へは、魚や野菜、菓子類などの食材をはじめ板や釘などの用材、草鞋や茶碗・風呂敷などの雑貨、薪や油など燃料にいたるまで様々な物資が供給されました。五兵衛新田が村をあげて屯所経営にたずさわったのは、「御上様御奉公筋(おんうえさまごほうこうすじ)」すなわち幕府への奉公となると考えていたことが伺えます。
五兵衛新田で着実に人数を増やしていた新選組は4月1日夜に急きょ移動を開始、翌2日朝には流山に駐屯していることが確認されています。こうした急激な移動は、千住宿への官軍の進出と、これにともなう歩兵の逮捕が要因でした。
新撰組の屯所となった二軒については、門前に、史跡の案内板を掲示しています。内部公開および一般対応はしていませんのでご注意下さい。
観音寺(綾瀬4-9-6)、名主見習金子健十郎家(綾瀬4-15-21)  (「足立区/新選組とあだち」より)]

観音寺
[真言宗豊山派の観音寺は稲荷山蓮華院と号します。観音寺は、賢智上人が開山、当地を開拓した金子五兵衛(法名開田院)が開基となり、17世紀初頭に創建したといいます。本尊十一面観世音菩薩江戸時代初期の作、境内に大師堂や鐘楼があるほか、荒川辺八十八ヶ所霊場51番札所、荒綾八十八ヶ所霊場70番札所で、荒川をめぐる地域の巡拝地でした。
●足立区教育委員会掲示による観音寺の縁起
真言宗豊山派の寺院。開山は賢智上人で17世紀初頭に創建されたと推定される。この地は江戸時代のはじめ頃から開発が進み、五兵衛新田と言われ、その後も同新田の菩提寺として地域とともに歩んできた。のち慶応4年(1868)3月には江戸から退却する新撰組の一隊(当時は甲陽鎮撫隊)が金子家とこの寺院に宿泊。新政府軍も伊藤谷橋まで進出し戦闘が始まろうとしたが、新撰組が流山に撤退したというエピソードを持つ。
開基は開発者の一人で法名を開田院と称した金子五兵衛である。境内に五輪塔形式の墓があり、開発の歴史を今に伝え、金子五兵衛の墓として足立区登録有形文化財となっている。
本尊は十一面観世音菩薩で江戸時代初期の作、境内に大師堂や鐘楼があるほか、荒川辺八十八ヶ所霊場51番、荒綾八十八ヶ所霊場の70番札所で、荒川をめぐる地域の巡拝地であった。ほかにも境内に寛文4年(1664)の聖観音立像庚申塔があり足立区登録有形文化財となっている。(足立区教育委員会掲示より)
●新編武蔵風土記稿による観音寺の縁起
(五兵衛新田)観音寺
新義真言宗葛飾郡青戸村寳持院末、稲荷山蓮華院と號す、開発の民金子五兵衛の開基なりと云へど年代は傳へず、本尊観音を安す。(新編武蔵風土記稿より)  (「観音寺|足立区綾瀬にある真言宗豊山派寺院 – 猫の足あと」より)]

稲荷山蓮華院 觀音寺 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が観音寺山門です。