初空襲の犠牲者追悼(水元小学校旧校舎)

マーカーは水元小学校旧校舎です。

初空襲の犠牲者追悼(水元小学校旧校舎)
[アメリカ軍による日本本土への初空襲(ドーリットル空襲)は1942年4月18日に行われましたが、それは空母から陸上爆撃機B25を発進させた奇襲攻撃で、東京には13機が来襲しました。東京では品川区の工場、荒川区尾久の住宅などが爆撃され、尾久では一家6人が焼死するという被害を受けています(東京初空襲の地)。それ以外にも牛込区の早稲田中学や葛飾区の水元国民学校高等科の生徒も銃撃により死亡しました。あわせて東京で41人が亡くなっています。  (「東京大空襲とは – 東京大空襲・戦災資料センター」より)]

[葛飾区の水元国民学校高等科一年生になったばかりの石出巳之助君(当時14歳)は、12時半すぎ、土曜の午前の農業実習を終えて、帰宅しようとしていた。校門を出たところで空襲警報のサイレンを聞いた。北の森の方から、真っ黒い飛行機が現れ、機関車のようなうなりを上げて低空でこちらへ向かってきた。とっさに学校内へ引き返そうとした巳之助君に向かって、B25は機銃掃射してきた。なんとか校舎に飛び込んだが、窓ガラスを貫通した掃射弾が彼の脇腹を直撃した。少年は廊下に倒れ、鮮血に染まった。近くにいた教師らが病院に運んだが、巳之助君は間もなく死亡した。[東京が燃えた日 – 戦争と中学生 – (早乙女 勝元)]  (「空襲日記 » Blog Archive 空襲日記 | 東京初空襲」より)]

[23区内に現存する最古の木造校舎とされる葛飾区教育資料館(同区水元)が、2016年3月末で閉館する。耐震補強に多額の費用がかかるためで、展示資料は「郷土と天文の博物館」(同区白鳥)に移し平成28年度中の公開を目指す。区は資料館を当面保存するが、元教員や地元住民は、歴史を刻んだ教室で展示してこそ平和学習に役立つ、と閉館を惜しんでいる。
 教育資料館は、明治に創立した南葛飾郡水元村立水元尋常小学校の校舎として大正14年に建てられ、東京都水元国民学校を経て区立水元小の校舎となった。2つの教室と廊下からなる約150平方メートルの木造平屋。昭和57年まで使われ、学校の南側に曳家した後、58年に葛飾区教育資料館として開館した。
 館内には、昭和17年4月18日、水元国民学校高等科1年の石出巳之助(いしで・みのすけ)さんが犠牲になった米軍爆撃機による本土初空襲の様子を記録した書物と校舎に残された弾痕を展示。そのほか、明治時代から昭和にかけ当時の小学校が使われた教科書やノート、めんこやコマなど約1400点の資料を公開している。
展示資料は同館を管理する「郷土と天文の博物館」にコーナーを作り移動する。区教委は「資料館の建物は当面は保存に努める」としている。  (「23区最古の木造校舎閉館へ 空襲の爪痕伝える葛飾区教育資料館 – 産経 …」より)]

第14回 小国民の殉職 – 空席通信 On The Net

水元小学校旧校舎 – Google Map 画像リンク

カメラ北西方向が水元小学校旧校舎です。