マーカーは南蔵院です。
「江戸御場絵図」(絵図は東西方向を軸に描かれていますので、絵図を回転して南北を軸にすると見やすくなります、南北軸にした絵図で、中央下・中川左、「立石」左に御膳所南蔵院が描かれています。)
南蔵院(しばられ地蔵)
[伊勢物語で知られる平安時代の歌人 在原業平が東下りの際に、隅田川で舟遊びをした時、船が転覆して多くの人が亡くなりました。業平はその人々を弔い、像を刻み村人に与え、法華経を写経して塚に納めました(業平塚)。その傍らに南蔵院が創建されました。そこには橋が架け渡され、業平橋と名付けられました。
南蔵院の宗氏は天台宗で、本山は比叡山延暦寺です。南蔵院は山号を業平山、寺号を東泉寺といい、法脈は現住職を以て41世(代)に及んでおります。本堂には釈迦如来を本尊として頂き、また地蔵堂には大岡政談で知られるしばられ地蔵尊を祀り、太子堂には聖徳太子尊を安置して下町庶民の信仰道場として尊信をあつめております。 (「南蔵院ホームページ – 南蔵院について」より)
しばられ地蔵の由来
[江戸時代の享保年間、8代将軍徳川吉宗の治世。日本橋にある呉服問屋の手代が南蔵院の境内でうっかり一眠りしている間に反物を荷車ごと盗まれてしまいました。 調べに当たった名奉行、南町奉行大岡越前守忠相は、「寺の門前に立ちながら泥棒の所業を黙って見ているとは、地蔵も同罪なり、直ちに縄打って召し捕って参れ」と命じました。かくして地蔵はぐるぐるに縛られ、車に乗せられ江戸市中を引き廻され南町奉行所へ。物見高い野次馬が、どんなお裁きが始まるかと奉行所になだれ込みました。頃を見計らった越前守は門を閉めさせ「天下のお白州に乱入するとは不届至極、その罰として反物一反の科料申附ける」の一声、奉行所にはその日の内に反物の山が出来ました。手代に調べさせるとその中から盗品が出て、それからそれへと調べると当時江戸市中を荒した大盗賊団が一網打尽となったのです。越前守は地蔵尊の霊験に感謝し、立派なお堂を建立し盛大な縄解き供養を行いました。以来、お願いするときは縛り、願い叶えば縄解きするという風習が生まれ、盗難除け、足止め、厄除け、縁結びなど、あらゆる願い事を聞いて下さる霊験あらたかな地蔵尊として祀られています。 (「南蔵院ホームページ – しばられ地蔵の由来」より)]
「南蔵院|葛飾区立石にある真言宗豊山派寺院、新四国南葛八十八ヶ所霊場 猫の足あと」
カメラ北西方向が南蔵院山門です。
境内のカメラで、カメラ西北西方向が本堂、その右方向に聖徳太子堂、しばられ地蔵尊、地蔵堂があり、カメラ南南東方向に鐘楼があります。
しばられ地蔵前の360citiesです。
しばられ地蔵(Google Map 画像リンク)