堀切天祖神社

マーカーは堀切天祖神社です。

江戸御場絵図」[絵図は東西方向を軸に描かれていますので、絵図を回転して南北を軸にすると見やすくなります、南北軸にした絵図で、絵図中央左方向・「堀切」左上に「毛無池」が描かれています。]

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で堀切本村右に八幡社と描かれています、また、その左に毛なし池が描かれています。

堀切天祖神社
[天祖神社は、葛飾区堀切にある神社です。天祖神社は、旧堀切村の鎮守で、永禄3年(1560)に勧請されたといわれます。
●葛飾区教育委員会 葛飾区神社調査報告
「葛西志」堀切村の条に「神明社 除地303坪、村の西北により有。永禄3年(1560)の勧請にして、極楽寺持なり」とある。堀切の地名は古く応永5年(1398)の「葛西御厨注文」に「堀切 14町1段半」と載せ、鎌倉時代中期以降、伊勢皇大神宮の神領地であった関係から、この社も奉祀されたものと推定される。当社の本殿は弘化2年(1845)に新築され、明治10年・同23年・同43年の修築を経て、昭和41年8月、現在の社殿が造営され、拝殿は明治2年・同43年に修覆されたものである。合祀誉田別命すなわち八幡宮は「新編武蔵風土記稿」では神明社とは別の神社とし、しかも神明社と同じく永禄3年の鎮座で、別当も同じ極楽寺としている。しかし一説には、武蔵石浜城主千葉介実胤の家臣窪寺蔵人頭胤夫が、武運長久祈願のために宝徳元年(1449)城内に勧請し、康正2年(1456)6月、胤夫父子は、戦死して八幡宮の傍らに葬られ、その墳墓を余に窪寺塚と呼んだ。八幡宮の社殿は天正年間(1573-97)大洪水によって流失し、現在の江東区深川富ヶ丘八幡宮(富岡八幡宮)の地にとどまったともいうが、その真偽は不明である。(葛飾区教育委員会 葛飾区神社調査報告より)  (「天祖神社|葛飾区堀切の神社、旧堀切村鎮守 – 猫の足あと」より)]

堀切の毛なし池
[いつの頃かの洪水でできた「けなすな池」という一町三反歩もある池があった。涸れぬ水に水鳥も多く、家康から家光まで狩に来たともいう。それが、綱吉の生類憐みの令で狩もなくなり、池にはますます魚や水鳥たちが増えた。
その頃のこと。池に浮洲ができ、雌雄の大蛇が棲みついた。昼は池底深く潜み、夜になると浮洲の葦の中で、大きな目をピカピカ光らせるのだった。そして、その姿を見たものは病にかかったり、口がきけなくなって死ぬと恐れられ、池に近寄る者もなくなった。
ところが、明治四十三年の大洪水を機に、荒川放水路が開削され、けなす池の始末が取り上げられ、池は埋められてしまった。住民は大蛇の祟りを恐れ、池跡に弁財天を祀った。これが堀切三丁目の毛無弁財天社である。
「けなすな池・けなす池」と両方書かれてあり、実際双方の呼び名があったのか誤植なのかは不明。ともあれ、題には「毛なし池」とあるので、高砂の「雨乞の毛なし池」と同じ意だろう。今、菖蒲七福神が置かれている辺りが池であったという(弁天社は天祖神社内にある)。
資料によっては夫婦大蛇と子の蛇の三匹の蛇が棲みついたなどと異同があるが、その姿を見ると障った、という点は同じであり、やはり、蛇で人が遠ざかっている池ではある。
「毛なし」には飢饉の無い、の意であるという説があり、怪異が語られる理由がそこにある可能性がある。緊急時の水源、食糧(魚)故に、平時は手を出すことが禁じられていた、ということではないか。  (「龍鱗:堀切の毛なし池(東京都葛飾区)」より)]

堀切天祖神社 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が堀切天祖神社参道です。参道鳥居を潜って右に弁財天(毛無弁財天社)があります。