マーカーは宝持院です。
「江戸御場絵図」(絵図は東西方向を軸に描かれていますので、絵図を回転して南北を軸にすると見やすくなります、南北軸にした絵図で、絵図中央・新宿亀有渡船場左に、宝持院が描かれています。)
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で中川左・「西青戸」左下の「卍」が宝持院です。
宝持院
[宝持院は、平安末期天養2年(1145)僧弁証が創建したといいます。往時は西青戸の大部分が境内だったといい、慶安元年(1648)寺領5石の朱印領を拝領、江戸期には30ヶ寺の末寺を擁する中本寺格の寺院、葛西三本寺の一つに数えられていました。
●葛飾区寺院調査報告による宝持院の縁起
天養2年(1145)僧弁証の開創。天文7年(1538)国府台の合戦の兵火によって焼失し、一時荒廃に帰したが、慶長16年(1611)春盛法印が再興した。当時は七堂伽藍を加えた大寺院であったという。慶安元年(1648)、寺領5石の朱印状を下され、近郷30ヵ寺の本寺であり、宗派では葛西3ヵ寺の一に数られていた。宝暦6年(1756)11月の火災と数回にわたる水害のため、多くの寺宝を失ったという。
大和長谷寺第48世永雅は文政8年(1825)から数年間、当寺に住持したことがあり、師手沢の仏書が当寺に残っている。近年、本堂以下が新築されて面目を一新したが、嘉吉2年(1442)鋳造、元禄12年(1699)再興の梵鐘は、今次の戦時供出によって現存しない。墓地には長崎奉行松浦河内守信正の墓(区文化財指定)がある。これは旧松浦家の所領下小合村竜蔵寺にあったが、その寺が廃寺となり、戦後、当寺に移された。また旧幕府御鳥見衆肝煎で立石村名主の島田家の祈念墓碑もある。(葛飾区教育委員会 葛飾区寺院調査報告より)
●新編武蔵風土記稿による宝持院の縁起
宝持院
新義真言宗山城国醍醐報恩院末、薬王山真頂寺と号す。寺領5石の御朱印は慶安元年賜へり。当寺は近郷三十ヶ寺の本寺にして、開基は弁證といふ僧にて天養2年起立と云。本尊薬師。
鐘楼。元禄12年鋳造の鐘を掛。(新編武蔵風土記稿より)
竜蔵寺について
竜蔵寺は東金町金蓮院の末寺でしたが、松浦河内守信正の墓が当寺に移された由来は不明です。なお、竜蔵寺の梵鐘は松浦の鐘として、区指定の文化財として、水元公園近くの水元さくら堤に保存されています。 (「宝持院|葛西三本寺、葛飾区青戸にある真言宗豊山派寺院 – 猫の足あと」より)]
カメラ北北西方向が宝持院山門です。