延命寺

マーカーは延命寺です。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で中川左・西青戸の右下の「卍」が現在地に移転する前の延命寺です。

延命寺
[真言宗豊山派の延命寺は、長久山地蔵院と号します。もと青戸宝持院の末寺で、1169年創立の古刹です。青砥やくじん延命寺と呼ばれています。地蔵菩薩本尊に、摩怛梨天(三面大黒)を祀り、古くから「やくじん(疫神)さま」と呼ばれ、親しまれてきました。これは鎌倉時代葛西城(青戸御殿)を領した青砥左右衛門尉藤綱が摩怛梨天(俗称・青砥疫神)を守護神としていた伝説や、町内に疫病が流行ると疫神様の神輿を担いだ史実などに由来します。水戸街道側に山門があり、階段を降りて境内の門の先に本堂、左側に二十一仏庚申塔があります。
●葛飾区寺院調査報告による延命寺の縁起
嘉応元年(1169)法印源秀の創立という古刹である。付近の葛西城の鬼門除けに建ったという伝えがある。中川に隣接するため、宝永元年(1704)8月の洪水をはじめ、数回にわたる堤防の決潰で多くの寺宝を失ったが、鎌倉室町時代板碑数基を所蔵している。寺内に安置する摩多羅神像は古くから信仰する者多く、毎年4月15日の縁日には、遠近からの参詣人でにぎわう。「葛西志」に次の記事がある。
延命寺 境内除地6反9畝10分。宝持院の東南に有て、門は西にむかへり。則宝持院の末寺なり。延命寺地蔵院と号す。嘉応元年の創立にして、開山法印源秀といへり。宮殿、6間に5間。本尊延命地蔵を安置す。鐘楼 門を入て右の方に有。鐘の円径、下にてニ尺六七寸。八面に梵字を彫り、その間に獅子鳳凰等の文を鋳出せり。銘は明暦3丁酉9月2日 法印権僧都永成鋳之 治工江戸田中三郎兵衛信次とのみ有て、序文等はなし。神明社 境内にあり。
明暦3年(1667)の梵鐘明治初年に失われて今はない。旧本堂は明治27年4月の建造であったが、近年、中川堤防拡張工事のため、昭和17年11月、やや北西の現在地に移って新築された。(葛飾区教育委員会 葛飾区寺院調査報告より)
●新編武蔵風土記稿による延命寺の縁起
延命寺
新義真言宗村内宝持院末、長久山地蔵院と号す。開山源秀嘉応元年開きしと云ふ。本尊延命地蔵を安す。
太神宮、稲荷社、麻多羅神。
薬師堂。
鐘楼、明暦3年鋳造の鐘なり。(新編武蔵風土記稿より)  (「延命寺|青砥やくじん延命寺、葛飾区青戸にある真言宗豊山派寺院、荒綾 …猫の足あと」より)]

延命寺 – Google Map 画像リンク

カメラ北北西方向が延命寺山門です。