新宿日枝神社

マーカーは新宿日枝神社です。

江戸御場絵図」(絵図は東西方向を軸に描かれていますので、絵図を回転して南北を軸にすると見やすくなります、南北軸にした絵図で、絵図中央・中川に、「新宿亀有渡船場」が描かれ、「新宿」下に山王社が描かれています。)

新宿日枝神社
[新宿日枝神社は、もと別当寺の鏡智院が永禄2年(1559)の創建と言われていることから、同時期に創建したものと推定されます。享保14年(1729)中川改修の時、現在地(鏡智院境内)に遷座、明治維新廃仏毀釈に伴い、鏡智院が廃寺となり、当社地となりました。江戸時代には新宿町の鎮守、明治5年には郷社に列格しています。
●葛飾区神社調査報告による新宿日枝神社の由緒
武蔵国風土記稿」新宿町の条に「山王社 町ノ鎮守ナリ。宝蓮寺持」といい、「東京府志料」新宿町の条には「日枝神社 駅ノ鎮守ナリ。モト山王社ト云。一新後、社号改マル。明治5年11月郷社トナル。末社5社。社地126坪」とあり、ともに鎮座の年代を明らかにしていない。しかし新宿は小田原北条家時代からの駅場であったから、その鎮守の社があって然るべきであり、また後掲の享保15年(1730)の社殿棟札に「別当山王山雲海寺鏡智院」とあり、山王山を山号とする別当寺の鏡智院は、上小松村(東新小岩4丁目)正福寺の末寺宝蓮寺の門徒であり、「正福寺惣門末起立張」によれば、永禄2年(1559)の起立であるから、当社もその頃の鎮守と推測される。
起立当初はやや西方にあったが、享保14年(1729)中川改修の時、現在地(鏡智院境内)に遷座し、翌年9月、新たに社殿を営み、延享元年(1744)3月、寛政11年(1799)1月に再度改築し、安政2年(1855)10月の大地震で拝殿の一部が破損し、同4年9月修復された。その間、宝暦11年(1761)には境内社の水神社が鎮座した。
明治維新に際して別当鏡智院は無住であったので、当社を管理していた本寺の宝蓮寺秀鏡は、同年11月、町内の百姓八郎右衛門を鏡左近として当社の神職としたい旨を小菅県に願いだす許可を得、翌年正月、鏡左近は神祗官から日枝神社神主職に補せられた。鏡智院は間もなく廃寺となった。
社殿は明治44年、幣殿は昭和11年10月、神楽殿は昭和6年10月の造営である。(葛飾区教育委員会 葛飾区神社調査報告より)
※社殿、幣殿、神楽殿ともに平成20年(2008)建替えられています  (「新宿日枝神社|葛飾区新宿の神社、旧新宿町鎮守 – 猫の足あと」より)]

新宿日枝神社 – Google Map 画像リンク

カメラ南西方向が新宿日枝神社鳥居です。

新宿日枝神社拝殿前のカメラです。