甲良屋敷跡

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甲良屋敷跡
[甲良家は、近江国犬上郡甲良荘法養寺村の出身で、初代甲良宗広から11代棟孝まで、江戸幕府に仕えました。江戸城をはじめ、日光東照宮など大きな建築物の造営に関与し、建仁寺派とよばれるた工匠の家柄でした。その甲良家の別邸の跡地です。また、宝暦2年(1752年)建立された、東都嘉慶樹(とうとかけいじゅ)の碑があります。碑文によると、の禅僧東皐心越が来日の際、布を張った小箱にの実をひとつ持参したことに由来しています。唐琴や書、武術家たちの交流があったことがわかります。また、昭和56年にはこの碑が縁で旱蓮果樹の種を送られるなど中国との交流がありました。
画像リンク画像リンク画像リンク  (「足立区観光ネット – 甲良屋敷跡」より)]

[甲良屋敷と称するところが二ヶ所ある。(1)市谷甲良屋敷 (現 新宿区市谷柳町市谷甲良町)と千住牛田の甲良屋敷 (現 足立区千住旭町10-31 千寿第四小学校)
千住牛田の甲良屋敷跡の石碑が千寿第四小学校敷地内にあり、その石碑から千住宿東側裏の牛田と呼ばれた地に甲良家三代宗清(宗賀)が寛文10年(1760)に一万坪の別邸を建てた、と説明している。その石碑には、宝暦2年(1752)の銘があり、裏面には甲良屋敷沿革と屋敷図が記されている。
また、「御舘入仕御用相勤来候由緒書」に、以下の記述がある。
「高祖父若狭儀者御扶持方拾人分并千住牛田ニテ御地面頂戴仕相勤」
高祖父若狭は、享保3-20年(1718-1735)大棟梁職を務めた5代棟利と考えられる。  (「Q2 甲良家は江戸時代どこに住んでいたか。 – 東京都立図書館」より)]

[拝領屋敷については上記サイトに記述されています。]

カメラ東北東方向に甲良屋敷跡碑があります。

[甲良氏(こうらし)は、江戸幕府作事奉行の輩下である幕府大棟梁。建仁寺流として11代まで続いた家系。主に日光東照宮造営、修理を行った。江戸時代末期には安政の大地震によって崩壊した江戸城修復なども行った家系。初代は甲良宗広(1574年-1646年)といい、現在の滋賀県甲良町法養寺出身。慶長元年(1596年)、京都近衛関白殿御門を建てる際、左甚五郎より片扉宛分を仰せ付けられ、褒美をいただいた。現在、甲良町には甲良豊後守宗廣記念館がある。3代宗賀の時、日光東照宮修繕の褒美として切米100俵と市谷の地(市谷甲良屋敷=現在の市谷柳町25番地)を拝領する。また自らは拝領地に居住せず、千住に屋敷を設けている。10代甲良棟全(明治11年(1878年)没)は安政大地震で倒壊した江戸城破損部の修繕を行い実質、最後の大仕事となった。11代甲良棟隆(匠造、明治43年(1910年)没)の際、明治維新を迎え、廃業した。流派は大島盈株に引き継がれ、のちに新橋駅等、鉄道建築物の造営に貢献した。甲良氏は、11代棟隆の子・伝次郎(鉄道省技師)が昭和21年(1946年)に没して断絶した。菩提寺港区正伝寺。  (wikipedia・甲良氏より)]

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