西光寺

マーカーは西光寺です。

西光寺
[天台宗寺院の西光寺は、超越山来迎院と号します。嘉禄元年(1225)に創建、当地は元葛西清重の居館とも言われています。南葛八十八ヶ所霊場33番札所、荒綾八十八ヶ所霊場34番札所です。
葛飾区寺院調査報告による西光寺の縁起
嘉禄元年(1225)の創立。寺伝によると、領主葛西三郎清重は幾多の戦功により、鎌倉将軍家から葛西領のうち3500町歩の地を得、晩年、葛西郡渋江郷(現在の四つ木)に閑居した。たまたま親鸞聖人が関東教化のとき葛西氏の館に留錫して、自ら阿弥陀如来の像を画いて与えた。清重は随喜のあまり聖人に帰依して弟子となり、西光房と号し、宅地内に一寺を建てたが、聖人の逗留中、五十余日の間、雨が降りつづいたので山号を雨降山といい、寺を西光寺と名づけた。
以来、浄土真宗として法灯を続けたが、永禄7年(1564)、国府台の合戦で兵火にかかり、寺運衰退し、さらにいくたびかの水害で無住状態となった。寛永年間(1624-43)、天台宗の旅僧が止宿して、由緒ある法灯の絶えることを惜しみ、村民とはかって天台宗の寺として再興し、浅草伝法院の門末として、山号を超越山と改めた。当寺では、浄土真宗の行事である報恩講式(親鸞聖人の忌日に行う法要)を毎年行っているが、これは阿弥陀如来画像の霊告により、安永4年(1775)以来、毎年4月8、9、10の三日間、執行されることを通例とした。
本堂の裏側宅地内に、清重稲荷を祀る社屋と、寺から100メートル両方の民家に囲まれた中に、清重塚という小丘がある。塚は葛西清重夫妻を葬った場所と伝え、寛永8年(1631)建立の五輪塔1基と、明治の待つ、大槻博士の建てた葛西清重の記念碑がある。なおここから江戸時代石棺が発掘され、中に多くの武器類が収められていたことが伝えられている。(葛飾区教育委員会 葛飾区寺院調査報告より)  (「猫のあしあと – 西光寺」より)]

西光寺 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が西光寺山門です。

西光寺資料リンク
国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 隅田川向島絵図」(絵図中央下・掘割に囲われた中に西光寺が描かれています。描かれている掘割は、西光寺右が曳舟川、左が曳舟川から分流する中居掘り、西光寺上は綾瀬川と思われますが、綾瀬川が中居掘りと合流している描かれかたををしている。この絵図は実測図ではないので実際と異なる点が多いようです。)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「渋江西光寺清重稲荷」(19-33)、「超越山西光寺解説-1・左ページ左から2行目まで」(19-32)、「超越山西光寺解説-2、清重稲荷祠解説・左ページ4行目まで」(19-34)

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