マーカーは金町関所跡の碑です。
「江戸御場絵図」(絵図は東西方向を軸に描かれていますので、絵図を回転して南北を軸にすると見やすくなります、南北軸にした絵図で、中央右方向・江戸川渡船場左に、「金町松戸御関所」が描かれています。)
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年の地図の「大向」右が金町関所跡になります。
金町関所跡の碑
[江戸時代初期の1612年(慶長17年)には江戸幕府により水戸道中の要所として江戸川の渡舟場を利用した関所である「金町松戸御関所」(葛飾区東金町8-23)が武蔵国金町村(幕府領)に設置され、以後1869年(明治2年)に関所廃止まで江戸幕府の防備上の機能を果たした。また1822年(文政5年)の『駅逓志』の記録によれば、五街道・四往還のうち東海道・奥州道中に次ぐ三番目の交通量があり、宿場に常置する伝馬の人数も五街道と同数とあり、かなりの重要な役割を担っていた。 (wikipedia・金町より)]
[江戸時代には葛飾橋の北方500mのあたりの現在は河原にあたる場所に「金町松戸関所」があった。江戸幕府は江戸防衛のために江戸川に架橋しなかったので対岸に渡るには渡し舟を利用していた。明治に入ってから葛飾橋がかけられた。関所跡の碑が、葛飾橋西詰の東北東に残されているが、この石碑のある場所は厳密には関所があったところとは異なる。 (wikipedia・水戸街道より)]
[金町関所跡 所在地 葛飾区東金町8丁目23番先
金町関所は、金町松戸関所と称され、水戸街道が江戸川を渡る地点に置かれた江戸の東の関門でした。関所の施設がある一帯は金町御番所町と呼ばれ、四名の関所番が明治2年(1869)まで、その任にあたりました。
対岸松戸宿との間には渡船が常備されていましたが、将軍が小金原に鹿狩りに出かける際には、江戸川に高瀬舟を並べた仮設の船橋が架けられました。四度行われた鹿狩りのうち、最後の嘉永2年(1849)の史料は、関所付近のようすを多く伝えています。
その後、明治末期に行われた江戸川の改修により、御番所町の家並みの一部は拡幅された堤防の下となり、江戸川の河身も大きく変貌しました。
関所跡は、松戸宿との位置関係から、現堤防下の河川敷一帯と推定できます。 葛飾区教育委員会]
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「松戸の里」(20-6)、「松戸津説明・右ページ3行目から」(20-7)
松戸の里(拡大図)
[図会「松戸の里」の上の川が江戸川、下の川が坂川で、左ページ左上に金町松戸関所が、左ページ左下に松戸宿が描かれています。]
カメラ北東方向に金町関所跡の碑と案内板が設置されています。