京極稲荷神社(丸亀藩京極家下屋敷跡)

マーカーは京極稲荷神社です。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切右下・「桐谷」と「小山」の間に京極能登守と記述されています。その三角地屋敷地の西端で品川用水が分岐しています。]

京極稲荷神社(丸亀藩京極家下屋敷跡)
[荏原郡戸越村、現在の品川区小山2丁目14番から17番の地には、かつて讃岐国 (さぬきのくに)(香川県)丸亀 (まるがめ)藩主・京極家の下屋敷がありました。丸亀藩は、明暦3年(1657)まで、山崎氏がおさめていましたが、三代藩主・山崎治頼 (はるより)がわずか8才で亡くなり、世継ぎがいなかったため、領地を没収されてしまいました。その後、万治元年(1658)に、京極高和 (きょうごくたかず)が播磨国 (はりまのくに)(兵庫県竜野から丸亀城に入り、丸亀藩主となりました。丸亀藩の所領は、5万1500石余で、京極高和以降、明治維新まで京極家がおさめていました。なお、支藩の多度津 (たどつ)藩1万石は、元禄7年(1694)に丸亀藩2代京極高豊の子・京極高通に遺領を分けたことにはじまります。さて、京極家の江戸屋敷ですが、上屋敷は虎ノ門外(港区虎ノ門一丁目)に、中屋敷は芝新堀端(港区東麻布二丁目)に、下屋敷は、「今里屋敷」(または白金屋敷・現港区白金台四丁目)と戸越村の「戸越屋敷」の2ヵ所にありました。
この「戸越屋敷」の広さは、8,395坪で、寛文6年(1666)、2代藩主京極高豊のときに手に入れたものです。この付近を地図でみますと敷地の形は三角形に見えます。屋敷内では、とれた野菜や薪を上屋敷に納めたり、のちには鉄炮場 (てっぽうば)(江戸時代の射撃場)としても使われました。この屋敷の東には中原街道が南北に通じ、江戸時代には交通上、軍事上重要なところにあった屋敷といえましょう。
現在、京極家の「戸越屋敷」をうかがい知る唯一のものが京極稲荷神社です。この稲荷は、屋敷の鬼門除け(守護神)として「戸越屋敷」内の北東部にあったものといわれ、今は地域人たちによって守られています。
また、こんな話が伝わっています。
『新修丸亀市史』によりますと、江戸で丸亀藩にかかわる事件がおきました。それは、当時ではめずらしい、女性が父の仇討ちを成し遂げた事件でした。「京極家の弓組足軽だった尼崎幸右衛門 (あまざきこうえもん)は妻と2歳になる娘里也 (りや)と暮らしていました。ある夜、幸右衛門が帰宅すると、同僚の岩淵伝内 (いわぶちでんない)が妻に言い寄ろうとしていたのです。怒った幸右衛門は、伝内に斬りかかり、逆に斬り殺されてしまいました。 13歳のとき、この話を聞いた里也は、仇討を決意し18歳になるのを待ちかね、江戸に出ました。当時剣客として知られた永井家に奉公しながら剣術修行にはげみ、腕を上達させていったのです。そして江戸の武家屋敷を転々としながら敵を捜しだし、京極藩の下屋敷で親の仇討ちをりっぱに果たしたというものです。」
宝永2年(1705)、三代藩主京極高或 (たかもち)のときでした。仇討ちの行われた下屋敷の場所は、史料からは判明しませんが、当時女性の仇討ちは珍らしいことだったので、江戸市中はもとより全国に知れ渡ったと伝えてられています。丸亀城内の丸亀市立資料館横には「烈女尼崎里也宅跡」の石柱が生家の丸亀市風袋町 (ふるたいまち)より移設されて現存しています。  (「品川の大名屋敷 第8回|品川区 – 品川区 Shinagawa City 」より)]

京極稲荷神社 – Google Map 画像リンク

カメラ南方向が京極稲荷神社です。

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