マーカーは仙台味噌醸造所です。
関連リンク – 「仙台藩外桜田上屋敷跡(伊達政宗終焉の地)」、「仙台藩伊達家上屋敷跡(日本テレビ)」、「仙台藩伊達家下屋敷跡(韓国大使館)」、「伊達藩下屋敷跡(旧島津公爵邸)」、「平賀源内電機実験の地碑、仙台藩蔵屋敷」、「鹽竈神社(仙台藩伊達家中屋敷跡)」
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP944・コマ番号516/553から仙台藩屋敷の変遷について記載されています。P945・コマ番号516/553「下屋敷 品川 荏原郡大井字林附」がこの地になります。
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切右下・池上道と稲毛道の二又の右上方向、間部若狭守上に松平政千代と描かれています。]
伊達藩品川下屋敷
[仙台藩伊達家が大井村、現在の品川区東大井4丁目に「伊達藩品川下屋敷」を拝領したのは、2代藩主伊達忠宗のときで、万治 元年(1658)に、麻布の下屋敷を返上して拝領しました。その広さは2万坪余りでした。この年、忠宗が亡くなり、伊達綱宗が3代藩主となりました。ところが、万治3年(1660)7月、藩主綱宗は不行跡を江戸幕府にとがめられ、藩主の座を2歳の息子 亀千代(後の伊達綱村)に譲り隠居させられ、品川下屋敷に閉じこめられるという処分を受けました。綱宗は21歳のその年から72歳で亡くなるまで、品川下屋敷を一歩も出ることなく長い余生を送ることになったのです。幼い亀千代が藩主になったことが、いわゆる伊達騒動の原因の一つになりました。この御家騒動は三大御家騒動として脚色され、その後の定本となる「伽羅先代萩 (めいぼくせんだいはぎ)」など「伊達物 (だてもの)」と呼ばれる、多くの芝居や浄瑠璃を生み出したのです。大井の地に隠居した綱宗は、書画工芸、茶道、能楽などの趣味の世界に生き、絵画「花鳥図屏風 (かちょうずびょうぶ)」や茶杓 (ちゃしゃく)など大変優れた作品が今も伝わっています。ただし、その行状は隠居後もあまり芳しくなかったようです。その後、5代藩主の伊達吉村のとき、大井村の下屋敷の一部約1万6千坪余りと、上大崎村に越前国(福井)鯖江藩間部家 の所有していた下屋敷「大崎屋敷」との交換が行われました。
幕府から拝領した屋敷を交換することを「相対替 (あいたいがえ)」といいますが、このように屋敷地の一部を分筆して交換することを「切坪相対替 (きりつぼあいたえがえ)」といいます。
大井村の仙台藩伊達家下屋敷は、一部を間部家と交換した結果、三千坪余りの広さとなり、ここは物資の集積所として使われました。仙台藩は江戸藩邸に常勤している3000名の食料をすべて仙台から運んでいましたが、この大井村の屋敷内に味噌醸造施設が造られると、原料の大豆はもちろん麹も仙台から運び、味噌造りをしました。仙台味噌は伊達政宗が備蓄用として造らせたのが始まりと言われていますが、この天然醸造の辛口の赤味噌を、品川下屋敷で造り、江戸詰の藩士の食用だけでなく、江戸市中にも売りに出しました。たちまち江戸っ子の評判となり、下屋敷は「仙台味噌屋敷」とも呼ばれるようになりました。明治維新後は、八木家に委任され、明治35年(1902)「八木合名会社仙台味噌醸造所」となり、現在に至っています。
この地は、昭和61年11月から63年3月にかけて、都道の補助26号線の工事に伴う発掘調査が行われ、江戸時代の仙台藩伊達家下屋敷の遺構、味噌醸造跡、伊達家の家紋「竪三引両紋 (たてみつびきりょうもん)」の入った鐙瓦 (あぶみがわら)など近世から近代にかけての遺構、出土品が発掘されました。 (「品川の大名屋敷 第2回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]
仙台味噌醸造所
[当社所在地(品川区東大井、昔は荏原郡大井村)は江戸時代、仙台、伊達藩の江戸下屋敷であった。伊達藩では備蓄食料確保の観点から寛永2年以来味噌蔵をもち、醸造を始めた。江戸在勤の士卒は当時3千名を数えたといわれ、それらの人々に与えるためにも味噌は必需品であった。当時の江戸の味噌は江戸甘であり、東北武士の口に合わなかったからである。江戸時代も下って、末期になると自給自足のためばかりではなく、余ったものを一般にも販売するようになり、半ば商売としての性格も持つようになった。江戸市民は仙台の殿様のお屋敷で出来る味噌というので、仙台味噌と呼ぶようになった。安政年間に出た江戸切絵図の『品川、白金、目黒辺之絵図』の中にも『仙台味噌屋敷』と記載されている。明治維新になり、伊達藩では味噌蔵と質屋(当時の金融機関で銀行と質屋の中間の性格を持つものだったらしい)を経営していたが、仙台から遠藤敬止(後の七十七銀行頭取)、佐藤三之助、八木久兵衛等5名を呼び、払い下げた。遠藤、佐藤等は質屋を引き継いで宮城銀行を興し、八木は味噌蔵を引き継ぎ、明治35年7月法人組織とし合名会社を設立して今日に至っている。 (「東京都味噌工業協同組合 八木合名会社仙台味噌醸造所」より)]
仙台坂のタブノキ
[指定番号 – 天然記念物第8号
指定年月日 – 昭和53年2月14日
所在地 – 東大井4-3-1
暖地の海岸地方に多く見られるクスノキ科の常緑の高木。別名はイヌグス。幹周り約3m70cm、樹高約20m、推定樹齢は約300年。 周辺で行われた発掘調査の結果、仙台藩伊達家下屋敷にあった樹木と推定。 (「大井地区の指定文化財|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]
「2014年06月06日 : henkyのブログ – livedoor Blog」
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 麻布新堀河ヨリ品川目黒マデ絵図」(コマ番号2/7・絵図中央上方向「間部下総守」左に「松平陸奥守」と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [6]拾六下」(コマ番号5・地図中央左方向に海晏寺が描かれています。海晏寺左の道路上方向左に松平陸奥守と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [5]拾六下」(コマ番号140に松平陸奥守 抱屋敷、コマ番号141に松平陸奥守、コマ番号142に間部下総守下屋敷その左に松平陸奥守下屋敷と描かれています。
「仙台味噌醸造所 – Google Map 画像リンク」、「仙台坂のタブノキ – Google Map 画像リンク」
カメラ南南東方向が仙台味噌醸造所で、カメラ東方向が「くらやみ坂」と呼ばれていた旧仙台坂です。
旧仙台坂のタブノキ