六郷の渡し跡

マーカーは六郷の渡し跡説明板です。

五海道其外分間延絵図並見取絵図(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
六郷図(拡大元画像・絵図左端が、六郷の渡しで、その右上に北野神社が描かれています。)

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で、「多摩川」に「六郷橋」、その上に八幡塚村が描かれています。江戸時代から六郷の渡し下流が筏流しの集積場になっていて、八幡塚村や下流の羽田猟師町には「筏宿」があり、この場所付近が「筏道」の起点となります。

六郷の渡し跡
[六郷は東海道が多摩川を横切る要地で、慶長5年(1600年)に徳川家康が六郷大橋を架けさせた。慶長18年(1613年)、寛永20年(1643年)、寛文2年(1662年)、天和元年(1681年)、貞享元年(1684年)に架け直され、貞享元年のものが江戸時代最後の橋になった。1688年(貞享5年)の洪水以後、橋は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられた。六郷大橋は千住大橋両国橋とともに江戸の三大橋とされた。寛文2年の橋は、長さ107間 (194.5m)、幅4間1尺7寸 (約8m)、高欄の高さが4尺3寸 (1.3m)。貞享元年の橋は長さ111間 (202m)、幅4間2尺 (約8m) であった。  (wikipedia・六郷橋より)]

[〈大田区指定 史跡〉  昭和50年3月19日指定
    六郷の渡し跡
 「六郷の渡し」は、旧東海道における八幡塚村と川崎宿間の渡しで、江戸の玄間口の渡し場として、交通上極めて重要であった。
 架橋記録は永禄年間(1558~69)慶長年間(1596~1614)がある。その後貞享5年(1688)洪水により流失してからは、橋を架けず渡船によって交通が行われた。渡しのようすは広重の錦絵や地誌叢書類によって知ることができる。
 明治7年(1874)以降、地元八幡塚村篤志家鈴木佐内によって、橋が架けられ有料で通行させたが、数次の流失にあった。現在の橋は昭和59年(1984)に架橋されたものである。
           ※出典〔大田区教育委員会設置の解説板より  (「六郷の渡し跡」より)]

「青梅からの材木流しの到着地 六郷川河口 筏師の帰り道 筏道」、「鈴木左内の『左内橋』 – 馬込と大田区の歴史を保存する会」

六郷渡場資料リンク
江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「六郷渡場」(4-79)、「六郷渡解説・左ページ」(4-78)
六郷渡場(拡大図)

狂歌江都名所図会 – 六郷渡場(拡大図)

絵本江戸土産 – 六郷川舟渡(拡大図)

六郷の渡し – Google Map 画像リンク

カメラ南南西方向に六郷の渡し跡の説明板があります。

六郷の渡し跡説明板(Google Map 画像)

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