マーカーは六郷用水物語 ジャバラです。
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切右下・「下沼部」下方向の六郷用水付近が六郷用水物語 ジャバラ設置付近になると思います。]
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図では「丸子渡」右方向・調布村記述の「布」と「村」の間の橋上流が「六郷用水物語 ジャバラ」が設置されている場所になると思われます。
六郷用水物語 ジャバラ
[この水車はジャバラ(足踏み水車、踏車ともいう)と呼ばれる揚水用水車の模型です。かつては六郷用水流域の水田においても、早春や干ばつ時の水が少なくなった時に、羽根を足で踏んで回転させ、田に水を揚げていました。
(実際に使われていた水車とは若干異なります。)]
踏車
[踏車(とうしゃ・ふみぐるま)とは、日本において江戸時代中期以降に普及した足踏み揚水機。人が車の羽根の上に乗り、羽根の角を歩くことで車を回し、水を押し上げるからくりをいう。別名を水車と称すが、原動機である水車とはエネルギー(人力と位置エネルギー)の変換方向が異なる。なお類似のものはアジアの稲作地域に見られる。
成立
大蔵永常の文政5年(1822年)の著作『農具便利論巻之下』によると、寛文年中(1661年から1672年の間)に大坂農人橋の京屋七兵衛と京屋清兵衛が制作し、宝暦から安永の頃(1751年から1780年の間)までに日本諸国に広まったと記録されている。
寸法及び価格
『農業便利論』では1人足踏み用の寸法は4尺5寸(1.36m)、5尺(1.52m)、5尺5寸(1.67m)の3タイプがあった。このほか2人踏用の大車や手回しの小車もあった。
泉州、堺、摂州、大坂辺りでの踏車の価格は4尺5寸は代銀48匁、5尺は代銀55匁、5尺5寸は代銀60匁とある。
記録
エドワード・シルベスター・モースの日記には、1877年(明治10年)6月29日、栃木県でのこととして、男は器用に水車の上に立って車を回した、と記しており、踏車を回す当時の日本人の様子を絵に描いている。
大正時代の踏車・wikipedia-photo、水車(みずぐるま)、踏み車(香取市)・wikipedia-photo (wikipedia・踏車より)]
カメラ北北東方向水路にジャバラと、その右デッキ上に「六郷用水物語 ジャバラ」案内標識があります。