マーカーは六郷用水 新宿糀谷村用水跡です。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図では「道塚」の右方向・東海道本線と国道との間の水路上が「新宿糀谷村用水跡碑」が設置されている場所になると思われます。
新宿糀谷村用水跡(六郷用水分流)
[六郷用水は、徳川家康が慶長二年(一五九七年)江戸近郊開発のため小泉次大夫に命じて開削した農業用水路のことである。
この用水の分流水路である新宿糀谷村用水は、道塚村・蒲田新宿村から糀谷村の南、萩中村の北を通って浜竹用水へと続き、南前堀へ流れて東京湾に落ちていました
用水は、農業用水としてはもちろんのこと生活用水として欠くことの出来ないものでしたそのため「生命の水」とも呼ばれていました
新宿小学校の前身の蒲田新宿小学校の頃には、この地に用水が流れていました。
土地の人々に愛された用水には、鮒やめだかが泳ぎ、ホタルが飛びかっていたそうですが、今は暗渠になりましたが一部がここに残されています
平成二年七月吉日 大田区教育委員会 新宿小学校]
「六郷用水 新宿糀谷村用水跡 – Google Map 画像リンク」
カメラ西北西方向に六郷用水 新宿糀谷村用水跡碑と案内板が設置され、その先に用水跡が保存されています。また、カメラ方向右に六郷用水碑が設置され、木橋のモニュメントが設置されています。