協和地蔵尊由来

マーカーは協和地蔵尊です。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図右端中央付近・「上大崎」と「下大崎」の間、目黒川に相州ハシと描かれている場所が、今の大崎橋が架かる場所です。]

東京府15区8郡時代の町村区分図 | 資料紹介 | 特別区協議会」 – 「東京府下大崎町全図」(地図方位が西向きで見ずらいですが、山手線と目黒川が交差する上方向、字谷在家下に大崎橋が描かれています。協和地蔵尊がある場所は、星製薬工場の下方向、字幡ヶ谷下357番地付近か?)

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で五反田左下、目黒川に架かるのが大崎橋です。

協和地蔵尊由来
[この地蔵尊の起源については定かではないがその昔中原街道の建設に多くの犠牲者が出たので、その供養のためこの地に六地蔵を建立したのではないかと思われる。
以後この近辺は湿地帯であった為人家が無かった事もあり、度重なる大雨などによりいつしか地中に埋もれてしまったが、その後徳川時代寛文年間(西暦1672年頃)内田家の祖先がこの地に住む様になり、或る日地蔵尊が埋没しているのを夢で知り掘り起こしてこの地に祭ったものと伝えられている。
昭和二十年頃迄は六体の地蔵尊が有り、一体は首の無い首無地蔵尊も有ったが、長い年月と昭和二十年五月二十四日の第二次世界大戦東京大空襲により破損が著しくなったため施主内田金太郎氏により新たに建立し協和地蔵尊と名付けて祭ったものである。
尚この近辺の歴史を物語る資料をカプセルに納め地蔵尊の下に埋設した。今より五十年後の昭和百七年(西暦二〇三二年)にこのカプセルを開け、この地の歴史が長く語り継がれることを願うものである。
昭和五十七年(西暦一九八二年)七月四日
西五反田共和町会  (「西五反田 協和地蔵尊由来 : 共働き二人暮らしを楽しもう – livedoor Blog」より)]

カメラ北東方向が協和地蔵尊です。