品川溜

マーカーはカメラ位置です。

品川溜
[溜(ため)は、江戸時代において、病気になった囚人などを保護する施設である。
代表的な溜としては、江戸浅草品川京都の悲田院村、大坂の高原などが知られているが、ここでは江戸の溜について述べる。
溜は千束の近くに存在した浅草溜南品川(現在の青物横丁駅付近)に存在した品川溜があり、浅草は車善七、品川は松右衛門の両非人頭が管理していたため、非人溜とも呼ばれていた。溜を管理する役人は全て非人で構成されており、選出も非人頭に一任されていた。
溜にあたる施設が設けられたのは貞享4年(1687年)。善七や松右衛門が町奉行から囚人を預かる施設を建設したことに始まる。
当初は行き倒れ無宿が主であったが、取調べ中の者も収容することになり、施設が手狭になったため、善七が元禄2年(1689年)に900坪、松右衛門が同13年(1700年)に500坪の土地の提供を江戸幕府から受けて完成された。
収容されていたのは前述のとおり、伝馬町牢屋敷にて重病になった囚人、遠島に値する重罪を犯したが15歳に達していない者、追放刑を受けたが身元引受人がいない無宿などが対象だったが、主人や親を殺傷した者(逆罪)は病気になっても収容されなかった。
基本的には病人を預かる施設であることから伝馬町牢屋敷よりは遥かに環境の良い施設だったようで、浅草では毎朝1回、品川では毎日1回医師の検診が行われていた。  (wikipedia・より)]

[品川寺の隣接した場所には江戸東海道筋の歴史に欠かせない話ですが、”松右衛門”と称する非人頭の住居、抱え非人の居住小屋百四十三軒、預かり罪人収容の品川溜があり、小屋頭四十二軒を配下に、日本橋を境として浅草溜の非人頭、車善七と共に長吏(穢多)頭弾左衛門の浅草新町役所の支配下で幕府司法行政の一端、江戸風の警察署を担っておりました。非人身分の仕事として御存知の鈴ヶ森刑場の管理、罪人仕置き手伝い、あるいは江戸流入の潰れ百姓(野非人)の刈込みや追い返し、奉行所の委託で犯罪者を品川溜内に収容管理する溜御用、盗人やキリシタン、捨て子などの見張り、長吏(穢多)職掌の補助。その他生活手段として斃牛馬処理と目黒川を利用した皮鞣、河川不浄物片づけ、乞食をする権利、番太、番太郎と称する各種番人。ただし細工、商いなど商工業は禁じられており江戸被差別階層として幕府から強い制約と一面の利権を受けておりました
注)現在は実体なく死語としての差別語を江戸歴史用語(幕府公文書用語)として使用しました。  (「東海道品川(2) – はてなダイアリー」より)]

品川溜資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 麻布新堀河ヨリ品川目黒マデ絵図」(コマ番号2/7・絵図中央上方向に「品川寺」下に「非人小屋」「品川溜」と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [6]拾六下」(コマ番号5・地図中央に品川溜と記述されています。)

カメラ位置は青物横丁駅北口ガード下で、カメラ北方向に品川溜があった。

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