土佐藩下屋敷跡案内板

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マーカーは土佐藩下屋敷跡案内板です。

関連リンク – 「土佐藩山内家上屋敷跡(東京国際フォーラム)」、「土佐藩築地邸跡」、「山内豊信(容堂)墓所

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切右下・濱川(立会川)上に松平土佐守と描かれています。]

土佐藩下屋敷跡案内板
[第1京浜国道付近の立会川沿いの高知藩山内家は下屋敷約1万6800坪の敷地を抱え、往事の東海道を挟んで河口には抱屋敷(かかえやしき)の揚場869坪を、1658年(万治元年)に拝領されたもので、両屋敷は表門通り(現立会川商店街通り)で結ばれていました。抱屋敷には、1853年(嘉永6年)頃に浜川砲台が築かれました。なお、山内家下屋敷は大井村の他に、木挽町築地(現中央区築地)にもありました。
山内家の上屋敷は、鍛冶橋御門内大名小路(現千代田区丸の内)にあり、1855年(安政2年)頃の高知藩主の山内土佐守豊信の家禄は24万2千石でした。
山内豊信は、松平慶永(よしなが)、島津斉彬(なりあきら)、伊達宗城(むねなり)らとともに、国政の方向について論議建策し幕末の四賢侯と称されました。1858年(安政5年)の頃江戸幕府日米修好通商条約に調印し、徳川家茂を将軍継嗣に決定したことなどに反対した大名・公卿・志士ら100人以上を弾圧する事件が起き、この処罰を安政の大獄と云います。この弾圧により山内豊信は隠居・謹慎を命ぜられ、蟄居したのがこの下屋敷でした(品川教育委員会より)。  (「小さな旅 龍馬と立会川 土佐藩山内家下屋敷のあった京急立会 …」より)]

[土佐・高知藩(所領、24万2千石)が大井村に下屋敷を拝領したのは、 明暦 (めいれき)の大火以後の万治元年(1658)頃のことでした。
抱え地1,050坪を含めて1万6,891坪と広大な敷地は、今の浜川中学校を中心とした東大井三丁目18番から28番にかけてと、東大井二丁目の13番の一部および22番付近にあたります。
また、同時期に、抱え地として立会川河口左岸にあたる浜川橋際の海側の地に、荷揚げ場として屋敷地869坪を手に入れています。
この荷揚げ場は、ペリー再来航後の安政初年に砲台が設置されたため、浜川台場もしくは浜川砲台と呼ばれていました。
この東大井三丁目の広大な下屋敷は、鮫洲の別邸と呼ばれ、藩主の別荘として使われたと考えられています。
なかでも15代藩主山内豊信が隠居した屋敷として知られています。  (「品川の大名屋敷 第9回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]

土佐藩下屋敷跡資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 麻布新堀河ヨリ品川目黒マデ絵図」(コマ番号2/7・絵図四つ切右上方向「松平土佐守」と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [6]拾六下」(コマ番号5・地図左端に松平土佐守下屋敷が描かれています。)

土佐藩下屋敷跡 – Google Map 画像リンク

カメラ位置はの第一京阪の浜川中学校東側・校舎とグランド境付近で、カメラ西北西方向に土佐藩下屋敷跡案内板が設置されています。

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