マーカーは増明院です。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で、「下郷」左方向、「光明寺」左上方向が増明院になると思われます。
増明院
[増明院は、高野山より下向した長誉阿闍梨(元禄年間1688-1703没)が開山、青山因幡守(延宝7年1679年没)が開基となり創建したと伝えられます。
●新編武蔵風土記稿による増明院の縁起
(鵜ノ木村)増明院
除地2段余、村の南なり青林山金剛寺と号す。新義真言宗高畑村宝幢院の末なり。御入国の頃はわづかなる寮にて修験者住めり。今の如く一寺となりし年暦は詳細にせざれど、開山長誉元禄年中寂すといへば、起立の年暦も推て知るべし。開基は青山因幡守なりといふ。中興開山映俊延享3年7月18日に寂せり。
門。東向、両柱の間8尺。
客殿。7間に5間。本尊大日如来座像、2尺1寸許なるを安置せり。
供養塔。境内にあり。碑文の末に、享保12年とあり。其文の大略は元禄12年の頃映俊と云僧此地に来りすみ、宝永年中に至りて再興のことを企て、山を 鑿ち地を掘りしに、供養の器と五股鉾を土中より得たり。其さまいと古雅にて、後世冶工の手になりしものとも見えず。思ふに此地の道場は古きことにて、戦国の頃兵火のためにやきのこりしもの、土中に埋もれしならんと云ことを彫りたり是等のことをもて見れば、御入国以前より修験のるいおりし寮なることしらるべきなり。
伊勢宮二ヶ所。一は境内背後の山上にあり。一は上り口にあり。共にわづかなる祠。
三島社跡。是も境内にあり。今は其処を三嶋の森と呼べり。
(新編武蔵風土記稿より) (「増明院|大田区鵜の木にある真言宗智山派寺院、玉川八十八ヶ所霊場 猫の足あと」より)]
カメラ西南西方向が増明院山門です。