大森貝墟(かいきょ)碑

マーカーは大森貝墟(かいきょ)碑です。

二つの貝塚碑
[現在、大森貝塚に関する石碑は、品川区側の遺跡一帯に整備された大森貝塚遺跡庭園(品川区大井六丁目21)内と、大田区側の大森駅近くのNTTデータ大森山王ビル横の小道を線路側にはいったところとの2ヵ所にある。 前者は横書きで右から「大森貝塚」、 後者は縦書きで「大森貝墟」と書かれており、 貝塚碑は1929年(昭和4年)11月に、 貝墟碑は1930年(昭和5年)に相次いで建てられた。 貝塚碑は、上部に縄文後期の深鉢をあしらい、碑額には「 The Site of the Omori Mounds discovered by Professor Edward S.Morse 」とあり、 貝墟碑は、高さ 2m を超える板碑で、碑面には「我国最初之発見 大森貝墟 理学博士佐々木忠次郎書」とあり、また「明治十年エドワード・S・モース先生の発見に係り門下生生理学博士佐々木忠次郎松浦佐用彦両氏と共に発掘研究せし顕著なる遺跡也昭和五年四月建立」とある。
モースが論文に発掘場所の詳細を書かなかったこと、貝塚発見の報告文書に所在地が大森村と記述されたことから、当初の発掘地点について長い間、品川区説と大田区説の2つが存在した。しかし、その後1984年(昭和59年)までの複数の調査により、東京府が大井村字鹿島谷(現在の品川区大井6丁目)の土地所有者に調査の補償金50円を支払った文書が発見されたこと、貝塚碑周辺の再発掘で貝層が確認された一方、貝墟碑周辺では見つからなかったことから、現在ではモースが調査したのは品川区側であったことがわかっている。なお、両者は約300mの距離である。
「東京大学法理文学部第六年報」によれば発掘地は「荏原郡大井町」(のちの品川区大井六丁目)である。
大森貝塚遺跡庭園・wikipedia-photo、品川区の大森貝塚碑・wikipedia-photo、大田区の大森貝墟碑・wikipedia-photo  (wikipedia・大森貝塚より)]

[《大森貝墟(かいきょ)》碑の由来
大正14年12月、大森貝塚を発掘し、江戸明治期の文化を海外に紹介したエドワード・シルベスタ・モース 博士の訃報が伝わると、ただちに博士と関係のあった石川千代松・岩川友太郞・臼井米二郎・佐々木忠次郎・松村瞭・宮岡恒次郎の六名が発起人となり、大森貝塚の顕彰とモース博士の偉大なる功績を後世に伝えるため、調査場所に記念碑をたてることにした。その場所は、発掘に参加した佐々木忠次郎の日誌と記憶、ならびに当時の地形、立木、村道の位置、大森駅との距離などにより、小林脳行店主の臼井米二郎の所有地(東京府荏原郡入新井町字新井宿山王下255番地・現在の大田区山王1丁目3番1号)とされた。
21名の研究者らが発起人となり建碑を呼びかけたが、昭和2年アメリカで起きた世界恐慌が日本にも及び、献金は集まらず、臼井米二郎が土地と資金を提供し、《大森貝墟》碑が完成したと、佐々木忠次郎は語っている。
除幕式は、昭和5年4月13日におこなわれた。碑の材料は仙台石で、高さ六尺、幅三尺、これに二段の台石を据え、碑の表面には碑名、英文記事、発起人の氏名を刻み、裏面にはモース博士の貝塚発見の由来を彫った。
昭和30年3月24日、《大森貝墟》碑は品川区の大森貝塚遺跡庭園内にある《大森貝塚》碑とともに国の史跡に指定された。
史跡《大森貝墟》碑は、日本の歴史に輝きをあたえた大森貝塚とその発掘者モース博士をたたえるとともに、師を敬愛する明治期の人々の意気が感じられる。私たちはこの碑を国の文化財の象徴として、末永く保存管理する使命をもっている。
東京都大森貝塚保存会
会長 関俊彦
この像は《大森貝墟》碑の約2分の1寸法のレプリカです。実物は左のNTTデータ敷地通路奥の階段を下りた先にあります。
2014年3月  (「《大森貝墟(かいきょ)》碑の由来 – Monumento(モニュメント)」より)]

大森貝墟の碑 – Google Map 画像リンク

カメラ東南東方向が《大森貝墟》碑の約2分の1寸法のレプリカです。 

大森貝墟(かいきょ)碑前のカメラです。