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宝幢院
[真言宗智山派寺院の宝幢院は、大綱山と号します。鵜の木光明寺第3世行観が創建したと伝えられ、門末50余ヶ寺を擁した檀林所でした。天正19年(1591)には徳川家康から11石の朱印状を拝領しています。
●「大田区の寺院」による宝幢院の縁起
寺伝によれば、醍醐山光台院の行観の開基といわれ、行観は保元元年(1156)に寂しているから、平安末期の開創になる。醍醐山地蔵院道教方の法流を継ぎ、末寺50余を有し、これらの子弟を教養する檀林所であった。享禄5年(1532)小田原城主北条氏康は、寺領11石を寄進し、天正19年(1591)徳川家康の寄進をはじめ、歴代将軍の庇護をうけた。しかし、安政6年(1859)の大暴風のため、諸堂倒壊し、さらに明治維新の変革により、昔日の盛観を失った。大正7年(1918)に至り、本堂、庫裡、山門、鐘楼を建造したが、昭和20年(1945)の戦災により、山門、鐘楼を残して焼失し、昭和37年(1962)本堂、庫裡を再建した。
「新編武蔵風土記稿」には、行観は鵜の木光明寺第3世の住持であり、もと光明寺が真言宗であったが、浄土宗となったため、近郷に真言宗の寺院を建立し、開山となったと記している。
当寺の習俗には、念仏講がある。旧高畑村の講員が中心となって、毎月講員宅の仏間で、光明真言、十三仏などの真言を唱和し、現在も続いている。また玉川八十八ヶ所霊場第八十八番札所、東海三十三観音霊場第十七番、武蔵不動尊第二十二番札所である。大正年間に高畑村泉蔵院を併合し、墓所等も合祀した。(「大田区の寺院」より)
●新編武蔵風土記稿による宝幢院の縁起
宝幢院
境内15,000坪、村の西方古川村の界にあり。新義真言宗、山城国醍醐光台院末。大綱山光明寺と号す。開山行観上人は保元元年6月9日示寂すと云のみにて、其詳なることは寺伝を失す。しかるに鵜の木光明寺の傳へによれば、行観上人はかの寺第3世の住持にて、鎮西派の浄教を奉せし人なり。当時草創の来由をたづぬるに、行観平日おもへり、鵜の木光明寺はもとこれ高野大師、鉢をとどめし地にして、浄土の道場となりしこと、法のためとは云へども、大師の霊さこそ本意なくおぼすべきなれば、近郷に真言の寺院を建立して、その志を達すべしと。終にこの地をしめて一寺を建立し、自も此ところに幽棲し開山となれり。第二世は本意のことく真言の僧を招待して寺を譲り、後に埼玉郡大相模の邊へ転住して入滅せりと。かかりければ寺号も院号もをなしくして、ただ鵜の木にては寺号を以て行はれ、当寺は院号をもて行はるるを異とす。山号はいかなる故にか金の字をあらためて綱の字を用ゆと。遥の後小田原北条家分国の頃、寺領を寄附せしといふ、今にその頃の文書四通を蔵す。氏家氏直の文書二通、その余の二通は板部岡江雪が奉りの由をしるして、虎の朱印を押す。御入国の後東照宮(徳川家康)より寺領11石御寄附の御朱印を賜りしより、今もかはらず。
門 – 両柱の間7尺。大綱山の三字を扁す。門前五六十間ばかり左右に大木のならびたてるあり。
本堂 – 8間に6間。本尊阿弥陀如来の立像。長さ2尺2.3寸ばかり。恵心僧都のさくなりといひつとふ。
寺宝 – 弘法大師像2体。地蔵菩薩像1体。理現大師像1体。不動明王像1体。愛染明王像1体。観世音菩薩像1体。大黒天像1体。肉付仏舎利1粒。弘法大師自筆書畫1軸。三日月地蔵菩薩畫讃1軸、弘法大師筆。南都東大寺妙澤和尚筆1軸。不動明王畫讃1軸、弘法大師筆。不動明王畫讃1軸、興教大師筆。紺紙金泥両部曼荼羅2幅、興教大師筆。釈迦涅槃曼荼羅1幅。金胎両部曼荼羅1幅。八祖畫讃8幅。光明曼荼羅1幅。十二天畫像1幅。
鐘楼 – 門を入て右の方にあり。2間四方、鐘の径3尺3寸5分。銘文あり。(中略)
弁天社 – 本堂の右の脇にあり。9尺四方、傍に小池あり。
熊野社 – 門を入て右にあり。僅なる小祠なり。
神明社 – 門前農家の背後にあり。
稲荷社 – 是も門外にて境内南の方の地につづきてあり。此社は当寺の地守なりや、寺伝云ありしも、其実は此祠へ寄進ありしなりと。今は此所林樹茂りて社の四方をおほへり。(新編武蔵風土記稿より) (「宝幢院|大田区西六郷にある真言宗智山派寺院 – 猫の足あと」より)]
江戸初期の梵鐘(鐘楼・画像リンク、案内板・画像リンク)
[延宝(えんぽう)9年(1681年)に、鋳物師(いもじ)の椎名伊予守良寛が多摩川の河原で鋳造したと伝えられます。宝幢院(ほうどういん)の梵鐘は区内最古級の梵鐘として、江戸初期の作風をよく残しています。 (「大田区ホームページ:江戸初期の梵鐘(宝幢院)」より)]
カメラ西方向が宝幢院山門です。