山内豊信(容堂)墓所

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山内豊信(容堂)
[山内 容堂 / 豊信(やまうち ようどう / とよしげ)は、幕末外様大名土佐藩15代藩主(在任期間:嘉永元年12月27日(1849年1月21日) – 安政6年(1859年)2月)。官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進、明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇った。薨去後は従一位贈位された。は豊信。隠居後の号は容堂。
土佐藩連枝の山内南家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男。母は側室・平石氏。正室は烏丸光政の娘・正子(三条実万の養女)。子は山内豊尹(長男)、光子(北白川宮能久親王妃)、八重子(小松宮依仁親王妃のち秋元興朝継室)。幼名は輝衛。酒と女と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。
豊信は福井藩主・松平春嶽宇和島藩主・伊達宗城薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち幕末の四賢侯と称された。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中阿部正弘に幕政改革を訴えた。阿部正弘死去後、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、容堂ほか四賢侯、水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。一方、井伊は紀州藩主・徳川慶福を推した。井伊は大老の地位を利用し政敵を排除した。いわゆる安政の大獄である。結局、慶福が14代将軍・家茂となることに決まった。容堂はこれに憤慨し、安政6年(1859年)2月、隠居願いを幕府に提出した。この年の10月には斉昭・春嶽・宗城らと共に幕府より謹慎の命が下った。
謹慎中に土佐藩ではクーデターが起こった。桜田門外の変以降、全国的に尊王攘夷が主流となった。土佐藩でも武市瑞山を首領とする土佐勤王党が台頭し、容堂の股肱の臣である公武合体派の吉田東洋と対立。遂に文久2年4月8日(1862年5月6日)東洋を暗殺するに至った。その後、瑞山は門閥家老らと結び藩政を掌握した。
文久3年8月18日(1863年9月30日)、京都で会津藩・薩摩藩による長州藩追い落としのための朝廷軍事クーデター(八月十八日の政変)が強行され、長州側が一触即発の事態を回避したため、これ以後しばらく佐幕派による粛清の猛威が復活した。容堂も謹慎を解かれ、土佐に帰国し、藩政を掌握した。以後、隠居の身ながら藩政に影響を与え続けた。容堂は、まず東洋を暗殺した政敵・土佐勤王党の大弾圧に乗り出し、党員を片っ端から捕縛・投獄した。首領の瑞山は切腹を命じられ、他の党員も死罪などに処せられ、逃れることのできた党員は脱藩し、土佐勤王党は壊滅させられた。同年末、容堂は上京し、朝廷から参預に任ぜられ、国政の諮問機関である参預会議に参加するが、容堂自身は病と称して欠席が多く短期間で崩壊した。
東洋暗殺の直前に脱藩していた土佐の志士たち(坂本龍馬中岡慎太郎土方久元)の仲介によって、慶応2年(1866年)1月22日、 薩長同盟が成立した。これによって時代が明治維新へと大きく動き出した。
山内豊信は、明治5年(1872年)、積年の飲酒が元で脳溢血に倒れ、46歳(数え年)の生涯を閉じた。墓所は土佐藩下屋敷があった大井公園(品川区東大井4丁目)にある。  (wikipedia・山内豊信より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [6]拾六下」(コマ番号5・地図左端に松平土佐守下屋敷が描かれています。)

山内容堂の墓 – Google Map 画像リンク

山内豊信(容堂)墓所参道口のカメラです。

山内豊信(容堂)墓所入り口前のカメラです。

山内豊信(容堂)墓所前のカメラです。

山内豊信(容堂)墓所(Google Map 画像)

山内豊信(容堂)墓所案内板(Google Map 画像)

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