マーカーは山王熊野神社です。
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切右下・「桐谷」右上方向に熊野権現と描かれています。]
山王熊野神社
[山王熊野神社の創建年代は不詳ですが、平将門の乱の鎮圧に下向した藤原恒望に従った熊野五郎武通が当社に戦勝を祈願したと伝えられます。元和年間(1615-1624)にこの地域新井宿村の地頭木原木工允が日光造営の棟梁を務めた際にその余材で当社の社殿を造営したといいます。境内社の稲荷社は、もと別当寺の善慶寺の稲荷堂として三十番神を祀っていたといいます。明治10年に村社に列格していました。
●新編武蔵風土記稿による山王熊野神社の由緒
熊野神社については、新編武蔵風土記稿新井宿村善慶寺項に稲荷社、熊野本社、熊野新宮と記されています。
稲荷社。本堂の背後山の中腹にあり。2間に1間、神体は三十番稲荷の内の稲荷なり。寺の傳へに昔は社のみありて神体もなかりしに、いつの頃のわざとも知らず、今の神体を納めてありしとぞ。想ふに諸国巡礼のものなどが持来りしものならんと云り。前に石階ありて、其下に鳥居をたつ。
熊野本社
稲荷社より猶山上にあり。本社2間に1間覆屋あり。元和年中日光御遷宮のとき、地頭木原木工はそのころ御大工の棟梁なりしかば、かれへ御造営のことを命ぜられ、落成の日、御礼式の飾に用ひられし冑を神体とし、御造営の余木を以この社をつくり、熊野権現に祀れり。神体はいま別当に蔵す。練鉢のごとく紙を以はりたれたる冑にて、四十八間の筋あり。すべて黒塗にして、星には金泥をぬり、鎧は日根野形にして白糸威なり。吹返に御紋あり。
寶物
貝、老石、木の葉石、二股竹、経文古写。此余にも駒の玉、日取玉、水晶念珠、関蟹芝草等もありしと社記に載たれども、いつの頃にか失して今はなし。
熊野新宮
本社とおなじ山つづきにて、南の方にあたれり。この所は善慶寺境内にはあらざれども、因みにここに出せり。社は2間半に2間、内陣9尺に1間、勧請の年代はつたへざれど本社建立より後のことなればちかき社なるべし。社前に鳥居とたてて其前に石階あり。
末社。
疱瘡神社、本社に向ひて左にあり。小祠。
天神社。これもわずかなる祠なり。同じ所にあり。(新編武蔵風土記稿新井宿村善慶寺項より) (「山王熊野神社|大田区山王の神社 – 猫の足あと」より)]
「熊野神社(荒藺ヶ崎) – Google Map 画像リンク」、「狐碑 – Google Map 画像リンク」
カメラ位置は善慶寺山門前で、カメラ北西方向が山王熊野神社参道です。