平塚の碑

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平塚の碑
[碑の由来
平安時代中期、「後三年の役」の際、兄の源義家を助けてこれを平定した新羅三郎源義光は、出羽からの帰途、この荏原郡平塚村付近で野営をしたが、その夜、盗賊の襲撃を受けて多くの将兵を失った。
 付近の村民は、亡くなった人を懇ろに葬り、広さ10坪ほどの塚を築いた。
 その後、この塚も次第に忘れ去られていたが、太平洋戦争の後に整地した際、鎧や兜、刀剣などがたくさん発掘された。
 同じころ、付近に住む人々がしばしば不吉なことに出会うので、義光のたたりではないか、という声が出て、地元有志の手でこの碑が建てられた。
 昭和33年(1958)からは、毎年5月3日に慰霊祭が行われている。
◆平塚の碑(しながわ昔話)
中原街道にある平塚橋という交差点の西側へ行くと、その路地裏には平塚の碑(荏原四丁目)がひっそりとたっています。昔、このあたりには塚があり、次のようなお話が残されています。
今から約九百年前の平安時代、出羽(現東北地方)で力をふるっていた清原氏の争いごとを源義家がおさえようとした「後三年の役」でのことです。兄の義家を助けるために京都からかけつけた新羅三郎(源義光)の活躍もあって、戦いは無事におちつきました。「ご苦労であった。わしも間もなくしたら京へ戻るが、おまえはひと足先に帰って休むがよい」
義家の言葉に安心した新羅三郎は兵隊を引き連れ、出羽から京都へ戻ろうとしていました。「もうそろそろ日が沈むころじゃ。夜道を進んでいくのは危ないのう。よし、このあたりで野宿することにしよう」。新羅三郎はこの平塚のあたりで兵隊たちを止め、一晩休むことにしました。
みんなが寝静まり、聞こえてくるのはスズムシとコオロギの鳴き声だけになりました。すると突然、盗賊たちがあらわれて、眠っている新羅三郎や兵隊たちに次々とおそいかかってきたのです。盗賊たちに立ち向かうこともできず、多くの兵隊たちはその場で命をおとしてしまいました。
これをあわれんだ村人たちは、亡くなった人たちを葬り、広さ十坪(約33㎡)ほどの塚を築いたということです。
ほかにも、昔、このあたりに住んでいた「ひらつか組」という野盗を、直江山城守が退治して彼らの武器と一緒に埋めたのが「平塚」だという説もあります。
【平塚の碑】
この塚は次第に忘れ去られ、いつしかなくなってしまいましたが、太平洋戦争のあと、このあたりをほりおこしたところ、よろいやかぶと、刀剣などの残片がたくさん見つかりました。同じころ、近くに住む人たちがたびたび不吉なことにあうので、伝説を知る人の間で「塚が失われたことによるたたりではないか」といわれるようになり、昭和二十七年(1952)に平塚の碑が建てられました。昭和三十三年(1958)からは、毎年五月に慰霊祭が行われています。  (「しながわ観光協会(東京都品川区) – 平塚の碑」より)]

平塚の碑とバーミヤン荏原店 – 戦後史の激動 – So-net」、「古墳なう 「平塚」

平塚の碑 – Google Map 画像リンク

カメラ北西方向小路先左方向小路先に平塚の碑があります。

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