平塚国民学校跡(平塚小跡地・スクエア荏原)

マーカーはスクエア荏原です。

[平塚国民学校跡
所在 品川区荏原四丁目五番三十一号
平塚国民学校 は、昭和九年(一九三四)六月に平塚尋常高等小学校として開校した。昭和十六年(一九四一)国民学校令が施行され、平塚国民学校と校名を変更する。昭和二十年(一九四五)五月の東京大空襲 によって全焼し、その後は後地小学校で授業を行い、翌二十一年三月に廃校となる。
現在の平塚小学校は、廃校から五年間の空白を経たが、地域の人たちの熱意がみのり、昭和二十六年(一九五一)四月に開校した。この跡地に新校舎が完成し授業を開始したのは同年九月で、その後、現在の発展をみている。
平成十五年六月三十日
品川区教育委員会  (「平塚国民学校跡 – Monumento(モニュメント)」より)]

[太平洋戦争におけるアメリカ軍の空襲による、品川・荏原両区における被害状況は、罹災面積では、品川区で10.16km2のうち3.90km2(罹災率38.39%)、荏原区で3.8km2のうち3.68km2(罹災率95.78%)となっている。特に荏原区は35区中最高の罹災率で、区のほとんど全部が焼き尽くされた。罹災者は昭和20年6月15日現在で、品川区で48,668人、荏原区で70,399人であった。
また、品川・荏原両区の戦災者は20万人以上、死傷者は約5,000人にのぼった。
 昭和17(1942)年4月18日、アメリカの空母から発進したB25爆撃機13機が東京を初空襲した。さらに昭和19(1944)年11月24日にはサイパン島発進のB29爆撃機が東京を空襲し、以後B29による各都市への空襲が本格化した。
 東京に対する空襲は、終戦までに122回に及び、多くの被害を出した。
 品川・荏原両区において最大の被害をもたらした空襲は、昭和20(1945)年5月24日のものであった。この日の空襲では、品川・荏原両区のほとんどの地域が火に包まれ、品川区では死者68名、重傷者573名、全焼家屋9,540戸、罹災者34,459人にのぼり、荏原区は死者184人、重傷者1,712人、全焼家屋15,000戸、罹災者60,000人にのぼった。(東京都戦災誌・品川区史より)  (「総務省|一般戦災死没者の追悼|品川区における戦災の状況(東京都)」より)]

品川区・荏原区空襲の一覧
[●1944年11月24日に111機のB-29による北多摩郡武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所、江戸川区、荏原区、品川区、杉並区、保谷町、小金井町、東久留米市、東京港などに対する初の戦略爆撃としての空襲(サン・アントニオ1号作戦)を行った。死者224人。これ以降アメリカ軍は1945年2月まで各回70-80機程度を出撃させ、東京や名古屋の軍需工場や港湾施設を目標とした戦略爆撃を続けた。
●1944年12月11日、大森区、品川区空襲。死者1人。
●1944年12月27日、板橋区、中野区、杉並区、王子区、淀橋区、城東区、小石川区、深川区、品川区、世田谷区、葛飾区、麹町区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、牛込区、北多摩郡武蔵野町、保谷町空襲。死者51人。
●1945年1月27日、エンキンドル3号作戦。麹町区、日本橋区、京橋区、麻布区、赤坂区、牛込区、小石川区、荒川区、向島区、下谷区、本所区、深川区、王子区、葛飾区、江戸川区、足立区、本郷区、浅草区、板橋区、中野区、杉並区、荏原区、渋谷区、北多摩郡小金井町、南多摩郡元八王子村、恩方村空襲、死者539人。エンキンドル3号作戦では、中島飛行機武蔵製作所を狙って出撃した76機のB-29のうち56機が有楽町・銀座地区へ目標を変更、有楽町駅は民間人の遺体であふれた(銀座空襲)。京橋区は大きな被害を受けた。
●1945年4月4日、淀橋区、下谷区、芝区、向島区、深川区、品川区、大森区、荏原区、蒲田区、江戸川区、世田谷区、立川市、北多摩郡府中町、武蔵野町、田無町、東村山町、小平町、清瀬村、保谷村、久留米村、拝島村、村山村、国分寺町、三鷹町、昭和町、南多摩郡日野町、加住村、川口村、西多摩郡福生村、西秋留村空襲、死者710人。
●1945年4月15日 – 4月16日、八丈島、荏原区、大森区、品川区、目黒区、蒲田区、芝区、麻布区、世田谷区、渋谷区、向島区、日本橋区、江戸川区空襲。B29・202機。死者841名。焼失5万874戸。主として羽田・大森・荏原・蒲田方面。隣接している川崎市も同時に空襲を受けた(城南京浜大空襲)。空襲・機銃掃射を受け死傷者4004人、約22万戸もの家屋を焼失した。
●1945年4月19日、荏原区、目黒区、大森区、渋谷区、杉並区、世田谷区、立川市、北多摩郡府中町、昭和町、大和村、三鷹町、小平町空襲。死者8人。
●1945年5月24日、B29・525機。死者762名。焼失6万5千戸。主として麹町・麻布・牛込・本郷方面。日本橋区、浅草区、麹町区、麻布区、牛込区、本郷区、品川区、中野区、板橋区、四谷区、江戸川区、京橋区、豊島区、蒲田区、荏原区、渋谷区、杉並区、赤坂区、世田谷区、目黒区、芝区、大森区、淀橋区空襲。死者762人、被害家屋64,487戸。
●1945年5月25日、山の手に470機ものB29が来襲(山の手大空襲)。死者3651名。焼失16万6千戸。主として中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・麻布、芝、世田谷、渋谷区、青山通り方面。目黒区、杉並区、小石川区、本郷区、大森区、品川区、城東区、深川区、浅草区、葛飾区、荒川区、江戸川区、滝野川区、下谷区、京橋区、淀橋区、足立区、神田区、荏原区、豊島区、日本橋区、王子区、板橋区、向島区、立川市、北多摩郡国分寺町、調布町、三鷹町、田無町、小平町、谷保村、昭和町、砂川村、村山村、狛江村、多磨村、南多摩郡町田町、忠生村、鶴川村、稲城村、浅川町、西多摩郡大久野村、平井村、西多摩村、瑞穂町、調布村空襲。死者3242人、被害家屋156,430戸。国会議事堂周辺や東京駅、皇居も被災し明治宮殿が焼失した。御文庫に避難していた昭和天皇は無事だった。死傷者は7415人となった。また東京陸軍刑務所に収容されていた62人のアメリカ人捕虜が焼死した(東京陸軍刑務所飛行士焼死事件)。
●1945年5月29日、大森区、蒲田区、芝区、品川区、目黒区、四谷区、牛込区空襲で死者41人。
●1945年8月13日、京橋区、蒲田区、大森区、品川区、荏原区、芝区、下谷区空襲。死者29人。  (wikipedia・東京大空襲#空襲の一覧より)]

品川区荏原で行われた「5・24城南空襲を語り継ぐ会」に参加してきた|格安 …

カメラ南西方向が2013年、旧平塚小学校跡にオープンした総合区民会館・スクエア荏原です。