弘前藩津軽家(戸越)中屋敷跡

マーカーは弘前藩津軽家中屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP906・コマ番号497/553から弘前藩屋敷の変遷について記載されています。P907・コマ番号497/553「中屋敷 品川領戸越村」がこの地になります。

弘前藩津軽家中屋敷跡
[陸奥国弘前藩青森県弘前市)津軽家は、今の青森県と岩手県付近を支配していた南部氏の家臣でした。しかし豊臣秀吉の全国統一の過程で独立し、現在の青森県西部、いわゆる津軽地方を所領する大名となりました。天正18年(1590)初代大浦(津軽)為信(ためのぶ)が4万5000石を所領して以来、明治維新に至るまで14代の藩主が一貫して当地を治め、その間の文化5年(1808)には高直(たかなお)しをうけて旧領のまま、10万石となっています。安政2年(1855)頃の津軽家の江戸屋敷は、上屋敷が本所二ツ目墨田区)に、中屋敷が、戸越村・浜町(中央区)・本所三つ目通り(墨田区)の3ヵ所に、下屋敷が亀戸(江東区)などにありました。
この江戸屋敷の中で、戸越村中屋敷は、突然の屋敷替によって得られたものです。場所は、今の品川区戸越一丁目と平塚二丁目付近にあたり、安政2年(1855)の時点では、約2700坪の広さがありました。
ふつう屋敷替は、内々に話があるものですが、このときは参勤中の藩主に急ぎの使が出されていることから、突然の話であったことが窺(うかが)えます。沙汰(指令)が出てから屋敷替が完了するまで、約10日間という、異例の早さで行われた屋敷替の顛末をお話しましょう。
文政10年(1827)閏6月19日、老中から弘前藩主・津軽越中守信順(のぶゆき)へ「御用の儀があるので、明20日登城するように」と指示が出されました。藩主津軽信順は参勤中のため、名代として支藩の黒石藩津軽左近将監順徳(ゆきのり)が登城しました。
御用の内容は「向柳原(台東区鳥越一丁目)の中屋敷を返上させ、代わりに戸越村の鳥取藩池田家の下屋敷のうち、6000坪を与える」というものでした。
向柳原の屋敷は、本所の上屋敷より江戸城に近いという利便性もあり、さらに御殿や、藩士の詰める大きな建物もある典型的な大名屋敷でした。その上、屋敷に接して荷揚場が設けられており、藩主家族の住まいや、藩の江戸での活動拠点としても格好のものだったと思われます。
屋敷替の申し渡しのあった翌々日の22日、津軽藩は家臣に、池田家戸越屋敷を見に行かせました。見に行った小山内十兵衛は、周囲は畑や藪で「下屋敷」とは名ばかり、屋敷守の長屋以外は何もなく、敷地は残らず畑であると周辺の絵図付で報告書を作成しています。しかも、今回拝領するところには、建物はなく、畑だけの土地でした。これでは、理不尽ともいえる屋敷替ですが、屋敷替の申し渡しから8日後、29日には、津軽家へ、戸越屋敷の引渡しが行われました。さらに、7月2日、幕府に返上する向柳原の中屋敷を改めるので、立ち会うようにと、幕府普請方から通知が出されています。
このように約10日間という短期間で、現地確認から屋敷引渡し、返上が行われましたが、その理由は定かではありません。しかし、この時期は、藩主信順の素行の悪さや浪費から、藩内対立に至った「津軽騒動」の初期にあたり、お家騒動の兆しを見た幕府が弘前藩へのぺナルティーとして行ったのか、あるいは藩内改革派が幕府に根回しした上での、支出削減策の一端であったかもしれません。その後、この戸越の地に建物が建てられたかどうかは不明です。
弘前藩の江戸屋敷は、本所など水運の便も良い江戸城の東側に固まっており、戸越のこの屋敷だけが離れています。その事から考えると、この屋敷は藩主家族が暮らすという中屋敷本来の目的からかけ離れ、年貢のかからない畑として使われ続けたのではないでしょうか。  (「品川の大名屋敷 第10回|品川区」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本所絵図」(絵図下左方向に津軽越中守上屋敷と中屋敷が、絵図中央右端に下屋敷が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 日本橋北内神田両国浜町明細絵図」(絵図右下・濵町川岸右に津軽越中守中屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 拾五」(コマ番号74/216・安永七(1778)年之形で、新橋通り下に津軽越中守と描かれています。コマ番号当時之形(弘化二(1845)年)には、酒井若狭守(小浜藩)と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [5]拾六下」(コマ番号166/171・延寶年中(1673年 – 1681年)之形で右ページ上に曽根三郎兵衛と描かれています。コマ番号167/171・天保五(1834)年之形以降曽根三郎兵衛屋敷地の一画に津軽越中守が描かれています。)

「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下」(コマ番号3/5・津軽越中守屋敷地がある一画右上で、霊源寺参道前道は相州道(中原街道)で右の道が百反通りになります。その交点上方向に京極長門守抱屋敷が、左方向に松平壱岐守抱屋敷(伊予松山藩旧熊本藩細川家下屋敷跡現在の戸越公園)が描かれています。)

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。1896~1909年地図の中央・文字「荏原」の間の交点が四ツ塚と思われます。「原」の字を囲む道の中に弘前藩津軽家中屋敷地があったと思われます。

カメラ位置は四ツ塚と思われる交差点で、カメラ西南西方向一画に弘前藩津軽家中屋敷地が含まれる武家地があったと思われます。