マーカーはカメラ位置です。
五海道其外分間延絵図並見取絵図(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
大森村図(拡大元画像・絵図中央右下「字内川板橋」が説明板設置場所になります。「字内川板橋」の左方向に「江戸から三里 京から百十七里」の大森一里塚が描かれています。)
旧東海道(美原通り)
[大田区指定 史跡〉 昭和51年2月25日指定
旧東海道(美原通り)
東海道は、江戸時代初期に江戸幕府の整備した、江戸日本橋を出発点とする五街道の一つで、江戸と京都を結ぶ、最も重要な交通路であった。参勤交代の大名行列のほか、一般の旅人にも大いに利用された。
昭和2年(1927)、東海道は拡幅改修され、第一京浜国道が完成した。そのため往時の幅員を比較的よく残しているのは、この美原通りと六郷地区の一部だけとなった。
旧東海道は、かつて三原通りと言われた。三原とは、字名の南原、中原、北原の三原のことで、美称して美原になった。
歌舞伎「浮世塚比翼稲妻」(鶴屋南北作)で有名な旅籠『駿河屋』のあった「するがや通り」は内川橋の際から分かれる。 ※出典〔大田区教育委員会設置の解説板より (「旧東海道(美原通り)」より)]
[品川宿・川崎宿間の東海道の道筋は、国道15号線、通称第一京浜国道と重なっている部分が多く、北品川の八ッ山から南大井の鈴ヶ森までの間と大田区内にある美原通りは、現在も旧道の道筋が残っています。南品川宿の海晏寺門前町屋前を過ぎると、品川宿から大井村に入ります。このあたりを鮫洲と呼んでいました。現在の東大井三・四丁目の海岸付近は猟師町があり、幕府に新鮮な魚介類を献上した御菜肴八ヶ浦 (おさいさかなはちかうら)の一つ「御林浦」といい、海苔養殖や漁業の盛んなところでした。大井村のはずれには御仕置場があり、現在も鈴ヶ森刑場跡には磔や火刑などの処刑に使用されたという台石が残されています。この手前の立会川に架けられた橋を俗に「涙橋」と呼んでいます。これは鈴ケ森で処刑される罪人の家族が密かにここまで見送ってきて、涙で別れたからその名があると言います。
宿場と宿場の間にある村々には立場という馬子や人足が休息するために設けられた施設がありました。品川宿と川崎宿間には、大井村浜川に、濁酒立場(どぶろくたてば)、東大森村には谷戸立場、雑色村に花の立場がありました。後には旅人の休息や宿泊を提供するようになります。しかし、幕府は宿場保護のため、公には立場茶屋での宿泊を禁じていました。このほか両宿の間には、和中散という旅の常備薬を売る店が3軒あり、北蒲田村にあった店では梅樹を植え茶店も営業していました。これが後に梅の名所と呼ばれる「梅屋敷」で和中散売薬所の跡です。 (「東海道品川宿のはなし 第9回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「浅草海苔大森」(4-72)、「麦藁細工大森」(4-73)、「大森和中散」(4-74)
浅草海苔大森(拡大図)
麦藁細工大森(拡大図)
大森和中散(拡大図)
「東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」・「浅草海苔(採取)」(6-65)、「名産荒藺海苔解説・右ページ6行目から」(6-67)
「浅草海苔(採取)」、「浅草海苔其の二(加工)」、「大師河原大森等へ遠騎の士」の図会解説に「さまざまな生業」からの文章を添付しています。
[海苔栽培の様子を近景で描く。海苔の栽培は、浅瀬にナラやケヤキなどの木の枝で作ったヒビと呼ばれる養殖具を刺し並べて行った。潮が踵(かかと)のあたりまで退いたところを見計らって、大人数での海苔採り作業が行われている。深いところでは、ベカ船で作業している。厳冬期の海苔は品質がよく、高値で売れたが、寒中の海で行う作業は厳しいものであった。 寒風に海面が波立つ様子が、流線で表現されている。海苔採り作業は素手で行われ、かじかんだ指を息で暖めている女性の姿も見える。わずかな海苔も採り残すまいと、笊(ざる)の水を切る際に流れ出る海苔や、海中に漂う海苔を網ですくい取っている。働く女性たちは被りものをしていないが、男女の差を描き分けるための演出ともとも考えられる(大田区立郷土博物館『大田区海苔物語』)。(富澤)]
「浅草海苔其の二(加工)」(6-66)、
[大森の海苔作りの一連の行程を描く。日中摘んだ生海苔は傷みやすいため、加工作業は深夜から行われた。まず生海苔を、両手で持った海苔切り庖丁で細かく裁断し、ゴミを箸で取り除いていく。つぎに四斗樽に水と裁断した海苔を混ぜ、升ですくい簀の上に置いた付け枠の中へ素早く流し込んで、四角い海苔を作る(海苔付け)。水が引き切らぬうちに揺すり、簀(す)に均一に広げるのがコツであった。水を切った海苔簀は、まず裏側から乾かしメグシで留めておく。天気がよければ昼過ぎには乾くので、簾から海苔を剥がして 10 枚ごとに束ねて出荷を待った。 厳寒期の海苔が最も質が良く、珍重され高値で売れたが、寒中での作業は厳しいものであった。実際は冬の寒さを防ぐため、作業小屋には戸があったはずだが、本図では屋内の作業を描くため省略されているようである。(富澤)]
「大師河原大森等へ遠騎の士」(6-64)
[大森(現東京都大田区)の麦わら細工は名物で、赤・青・藍・黄・黒などの原色に染め上げた麦わらをたて割りにし、箱の表面に貼り付けて幾何学文様や花鳥などを形作った「張り細工」、木刀に貼り付け青龍刀のように形作った玩具、長い麦わらで虎や馬などの動物・でんでん太鼓・唐人笛・虫カゴなどを編み上げた「編み細工」があった(大田区立郷土博物館『麦わら細工の輝き』)。図中でも店内に虎・宝船・笠など、大型の麦わら細工が見える。左側には多角形の箱に模様を張り込んだ箱物細工並べられ、女性店員が親子に見せている。唐人らっぱを吹く父子が描かれ、実際に音の出る玩具であったことが分かる。 賑わう店の前を、馬に乗った侍と従者が駆け抜け、街道を行く人々を驚かせている。当時は西洋式の蹄鉄は伝来しておらず、馬も草鞋を履いていた。追いかける従者も、馬の速度についていくため、刀に小型の荷をつけただけの軽装である。(富澤)]
狂歌江都名所図会 – 大森細工(拡大図)
狂歌江都名所図会 – 大森和中散(拡大図)
「日本山海名物図会」(巻の三 – 11ページ・江戸浅草海苔)
「大田区文化財「旧東海道(美原通り)」説明板 – Google Map 画像リンク」
カメラ東方向に旧東海道(美原通り)の説明板があります。
旧東海道(美原通り)(Google Map 画像)
旧東海道(美原通り)案内板(Google Map 画像)