マーカーは東関森稲荷神社です。
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切右下に「下蛇窪」右下方向・立会川と稲毛道との間の稲荷社が東関森稲荷神社と思われます。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下」(コマ番号5/5・絵図左上、悪水川(立会川)下に稲荷社と描かれています。)
東関森稲荷神社
[東関森稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、江戸時代末期の地誌新編武蔵風土記稿にも「除地七畝十歩く、村の西の方にあり、土人此地を稲荷森に呼べり」とあり、稲荷森稲荷・藤花森稲荷・東關森稲荷と称するといいます。
●東京都神社名鑑による東関森稲荷神社の由緒
創建年月日不詳。付近の住民の崇敬が篤い。(東京都神社名鑑より)
●新編武蔵風土記稿による東関森稲荷神社の由緒
(大井村)稲荷社
除地七畝十歩く、村の西の方にあり、土人此地を稲荷森に呼べり(新編武蔵風土記稿より)
●「大井町史」による東関森稲荷神社の由緒
藤花稲荷神社は、森下三千九百七十七番地に在る無格社で、祭神は迦之御魂命であつて、毎年二月初午の日に祭禮を行つて居る。境内は現在南間口十五間、東十六間、西十九間、北十二間で、社地二反六十歩である。昔この邊を稲荷の森と云つた。尚この稲荷に關する傳説に
此森に住める市野傳九郎と云ふ農夫の家に、稲荷を勧請した。然るに、此家の老婆祠の傍に穴住する狐に日々食を與ふるを常の勤めとした。狐も亦この老婆に馴れて能く従ふ、其のこと近郷の風評となりて、此の稲荷に参詣して狐を見るもの漸く多く、参詣者群衆するに至れり、されど關東取締出役により、新規なる神社の流行参詣を禁ぜられ、茲に参詣者も絶ゆるに至つた。是将に享和文化の頃であると。(「大井町史」より) (「東関森稲荷神社|品川区大井の神社 – 猫の足あと」より)]