マーカーは矢口の渡です。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で、多摩川に矢口ノ渡が描かれています。
矢口の渡
[矢口は渡船で名が知られる。1358年(延文3年)、新田義興がこの矢口渡(やぐちのわたし)で謀殺され、住民が義興を祀って新田神社を創建した。「矢口」の地名は正木文書のうち、1395年(応永2年)の『岩松氏所領注文』に初出する。
義興の頃の多摩川は現在よりも大きく東に湾曲しており、渡船場は現在の新田神社付近にあったと思われる。その後の渡船場は流路の変遷と共に何度か位置を変え、江戸中期に、東八幡神社の南に落ち着いた。 (wikipedia・矢口より)]
[大田区文化財
矢口の渡し跡
新田義興(にったよしおき)が、討死したといわれるころの渡し場は、現在の新田神社付近にあったと思われ、多摩川は、今より東へ大きく湾曲していたと考えられる。
江戸時代に、平賀源内により戯作(げさく)「心霊矢口の渡」が作られ、歌舞伎に上演されるに至り、この渡しは有名になった。
渡し場は、流路の変遷と共に、その位置をいくたびか変え、この付近になったのは、江戸中期からであると考えられる。
この渡しは、区内最後の渡船場として、多摩川大橋が完成する昭和二十四年(一九四九) まで利用された。
昭和五十年(一九七五)三月十九日指定 大田区教育委員会 (「矢口の渡し跡|散歩日記」画像より)]
狂歌江都名所図会 – 矢口渡(拡大図)
カメラ東北東方向に「矢口の渡し跡」案内板が設置されています。
「矢口の渡し跡」案内板(Google Map 画像)