マーカーは関ヶ原公園です。
関連リンク – 薩摩藩上屋敷跡、芝さつまの道、薩摩藩装束屋敷跡(元鹿鳴館)、西郷隆盛と勝海舟の会見の地碑、薩摩藩島津家下屋敷跡(常陸宮邸)、常盤松の碑、薩摩藩島津家下屋敷跡(八芳園)、柘榴坂(薩摩藩島津家・久留米藩有馬家下屋敷跡)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP526・コマ番号307/553から鹿児島藩屋敷の変遷について記載されています。P527・コマ番号307/553「下屋敷並抱屋敷 大井村」がこの地になります。
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切右下・池上道と稲毛道の二又の右下方向、濱川(立会川)両岸に松平薩摩守と描かれています。]
薩摩藩島津家抱屋敷
[鹿児島藩の江戸屋敷は時代によって7~9カ所ありました。安政3年(1856)頃でみますと、まず、上屋敷が幸橋御門内(現在の日比谷公会堂 東側の千代田区内幸町一丁目付近)にあり、中屋敷は、芝新馬場(現在の港区芝3丁目付近)、抱屋敷(下屋敷)は、中屋敷の隣地や下高輪町(港区)や中渋谷村(渋谷区)、大井村などにありました。大井村にあった、島津家の抱屋敷は、約2万坪余りと広大なもので、場所は現在の品川区東大井六丁目2番~13番、一部は大井四丁目にかけての範囲にあったと推定されます。この抱屋敷は最初、万治2年(1658)に、当時の藩主島津光久が土地18000坪余りを買い得たもので、さらに天保3年(1832)に2382坪ほど買い足しています。この抱屋敷の特徴は、立会川を屋敷の南北にかけて通していることで、当時の絵図などからわかります。この屋敷がいつ頃まで存続していたかは分かっていませんが、昭和7年(1932)に刊行された『大井町史』によると、「慶応年間に至り、平林九兵衛が薩州侯より此の地を譲り受け、これを開墾して耕地にした」とあります。また、明治期の各種実測図からは、屋敷の区画を読み取ることができないため、明治の早い段階で、屋敷の境界を示すものは撤去されてしまったようです。この屋敷の西側部分に鉄道が敷設され、その測量が明治3年(1870)に行われていることから、鉄道開通に向けて、周辺整備をしていったのではないかと考えられます。 (「品川の大名屋敷 第14回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]
[旧・薩摩鹿児島藩島津家抱屋敷跡
東大井6丁目
この付近より東海道線を越えた地域を含む広大な地は、鹿児島藩島津家の抱屋敷(万治2年(1658)買得)および抱地(天保3年(1832)取得)であった。敷地は約1万8千坪に及ぶ。安政3年(1856)当時、藩主島津斉彬 の父で前藩主の斉興(松平大隅守)がこの抱屋敷で隠居生活を送っていたため、絵図上では「松平大隅守」と表記されている場合がある。
慶応年間になり、大井村の平林九兵衛 が島津家よりこの地を譲り受け、開墾して耕地にしたと伝えられている。
安政2年(1855)頃の薩摩藩主島津薩摩守斉彬は77万8百石の家禄があり、上屋敷は幸橋御門内(現・千代田区内幸町)にあった。
※上記大名屋敷の所有関係は、安政3年頃のもの
品川区教育委員会 (関ヶ原公園 – Google Map 画像より)]
薩摩藩島津家抱屋敷資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 麻布新堀河ヨリ品川目黒マデ絵図」(コマ番号2/7・絵図中央右上方向に「松平大隅守抱屋敷」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [6]拾六下」(コマ番号5・地図左端に方向に松平大隅守抱屋敷が描かれています。)
カメラ南方向が東大井遊歩道です。
カメラ位置は東芝病院前で、病院敷地を含む品川区東大井六丁目の大部分と品川区大井四丁目が薩摩藩島津家抱屋敷跡地です。カメラ北方向の東大井遊歩道先に関ヶ原公園があり、そこに薩摩藩島津家抱屋敷跡の案内板が設置してあります。
カメラ南西方向に薩摩藩島津家抱屋敷跡の案内板が設置してあります。
薩摩藩島津家抱屋敷跡案内板(Google Map 画像)