西光寺

マーカーは西光寺です。

西光寺
[浄土真宗本願寺派の西光寺は、栄松山と号し、もと麻布善福寺末です。弘安9年(1268)3月栄順律師が開創し、後浄土真宗に改宗しました。
品川区の文化財による西光寺の縁起
弘安9年(1268)3月栄順律師が開創した寺である。当時は天台宗であったが、のち浄土真宗にかわった。浄土真宗に改宗した時期はわからない。当寺の歴世は、当寺に遺されている天明2年(1782)頃直筆の過去帳によると栄順以来世襲で継承されているので、開創直後に改宗したことが推察される。ただ6世は5世了証の子であるにも拘わらず心月律師となっているので一時期天台宗に復していたことも考えられる。その後慶長年中(1596-1615)に至って栄空が再興したといわれている。栄空は前述の過去帳では15世空善とされ、清原武則の長子で幼名を伯王丸と呼び父は北条氏康の幕下であったと記述されているが当寺に記されている「芳賀氏系図」では栄空は芳賀出雲守定仲と呼び孝譲朝、天平勝宝5年(753)に下野国国司となって芳賀郡に住んだ。芳賀豊澄の子孫だといわれ織田信長麾下の武将であったが信長の死後比叡山に隠れて出家し、三年後比叡山を下って当寺の住職になったといわれている。この系図によると定仲は武田信玄の家臣であった芳賀右近介定明(のちに入道して玄覚と呼ぶ)の子で定明は天目山の戦いで武田勝頼と共に戦死し、その子の定仲は織田信長に仕えたといわれている。当寺には前記の「過去帳」一冊、「芳賀氏系図」一巻のほか武田信玄が玄覚に与えた「感状」一通、徳川家康が玄覚に与えた「御教書」一通が、現在も遺されている。江戸時代には当寺も来迎院と同様桜の名所であったが、明治26年(1893)5月に当寺は火災に遇って本堂その他の建造物と桜の名木が焼けてしまっている。(品川区の文化財より) (「猫のあしあと」より)]

[創建は鎌倉時代の弘安(こうあん)9年(1286年)とされ、ここも桜の名所として知られ、立春から70日目ころより咲きはじめる花は単弁(ひとえ)の「醍醐(だいご)桜」や「児(ちご)桜」が江戸名所図会の挿絵にも描かれています。  (「江戸から明治の品川名所 第7回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切右下・「大井」左上方向に西光寺が描かれています。]

「江戸名所図会」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・西光寺

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「西光寺」(4-37)、「栄松山西光寺解説-1・右ページ左より2行目から」(4-38)、「栄松山西光寺解説-2・右ページ中程過ぎまで」(4-39)

西光寺 – Google Map 画像リンク

カメラ西北西方向が西光寺参道です。

西光寺本堂前のカメラです。

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