マーカーは観蔵院です。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で、「高砂」下で、品川用水上に観蔵院があります。
観蔵院
[観蔵院の創建年代は不詳ですが、鵜の木光明寺が真言宗寺院であった頃、その加行道場として創建したと伝えられ、鵜の木光明寺は寛喜年間(1321-1332)に浄土宗に改宗していることから、1332年以前に創建したと考えられます。中興3世順宥が三河国鳳来寺より勧請した薬師如来が”峯の薬師”として江戸時代に崇敬を集めたといいます。明治時代に一旦廃寺となったものの、大正11年(1922)6月に檀徒の熱望により再興、羽田の廃寺観蔵院の寺号をうけついで、観蔵院と称するようになりました。
●「大田区の寺院」による観蔵院の縁起
開創の年代および開山は不詳である。隣接の鵜ノ木にある光明寺が真言宗であった頃{寛喜年間(1321-1332)に浄土宗に改宗したといわれる}当寺はその加行道場として建立されたものと伝えられている。
慶長元年(1596)に示寂した宥忠法印が中興1世で、この頃間口7間(約13.5m)、奥行4間(約7m)の堂宇を建立し、大日如来を本尊として安置した。つづいて3世順宥の時、寛文元年(1661)11月に三河国(愛知県)秋葉山の薬師如来を勧請して一堂を建立しようとしたが果すことができず、6世宥海の代、正徳3年(1713)になって順宥の遺志が達成され、間口4間(約7m)、奥行4.5間(約8m)の薬師堂が建立された。これが俗に峯の薬師堂と呼ばれているものである。この薬師堂は12世良運の代、幕末の頃になると非常に参詣者が多くなり、最も殷賑を極めたといわれている。
13世一学(松本一学、一説に一覚とあるが、墓辞には一学と刻まれている。明治14年示寂)は当時の廃仏毀釈の風潮によって、神宮に転じたため、当寺は無住となり、明治4年(1871)1月、寺の下僕の失火から堂宇は焼失した。当時の副戸長、原田太光は寺の維持困難を理由に廃寺としたが、大正11年(1922)6月に檀徒の熱望によって再興が東京府から認可され、羽田の廃寺観蔵院の寺号をうけついで、観蔵院と公称することになった。16世照三が兼務住職の頃、大正12年(1923)8月に薬師堂が改築された。ついで17世隆燈の代、昭和5年(1930)4月に現在の庫裏が建築された。薬師堂は戦災で焼失し、昭和35年(1960)4月にその跡地に現在の薬師堂が再建された。(「大田区の寺院」より)
●新編武蔵風土記稿による観蔵院の縁起
明治時代に廃寺となるまで、観蔵院は峯松山正善寺と称していました。
(嶺村)正善寺
境内免除地6畝20歩。村の中央にあり。新義真言宗、高畑村宝幢院末、峯松山と号す。開山開基を詳にせず。本堂4間半四方。本尊大日如来、座像1尺なるを安ず。
馬頭観音堂。本堂の後にあり。石階27級を陟てここに至る。堂は4間四方。
古碑三基。何れも墓所にあり。一は正応4年権律師賢海、一は延文6年3月日、一は寛正5年3月1日と彫刻せり。
薬師堂
境内見捨地7歩、村の中央正善寺の邊にあり。青山因幡守の建立なるよし。年暦を傳へざれど寛文より元禄あたりまでの領主なれば、其頃の造立なりや。三河国鳳来寺峯の薬師のうつしなれば、土人峯の薬師と云と。今縁起を傳へざれば詳なることを知らず。正善寺のもちなり。(新編武蔵風土記稿より)
●寺号を引き継いだ観蔵院について
大正11年に当寺を再興した際に院号を引き継いだ観蔵院は、大田区羽田にありました。
(羽田村)観蔵院
境内年貢地、字仲町にあり。海照山東照寺と云。新義真言宗にて、是も高畑村宝幢院の門徒なり。本堂南向4間四方、本尊は地蔵尊、木佛座像にて長1尺許。開山は詳ならず。
稲荷社。除地1畝、堂に向て右の方にあり。社2間に3間、南向内陣は3間許、石の鳥居立てり。
稲荷社
除地1畝、堂に向て右の方にあり。社2間に3間、南向、内陣は3間許、石の鳥居立り。(新編武蔵風土記稿より) (「観蔵院|大田区西嶺町にある真言宗智山派寺院、玉川八十八ヶ所霊場 猫の足あと」より)]
カメラ西南西方向が観蔵院総門で、総門先に山門があり、山門手前右に薬師堂があります。