マーカーは長遠寺です。
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切右下・「馬込」右上方向に長遠寺が描かれています。]
長遠寺
[長遠寺は、宥尊上人が馬込邑字堂寺の地に天仁元年(1108年)草創、文亀二年(1502年)当地に移転、快慶法印が元禄年間(1688-1704)に中興して檀林寺格としたといいます。
●「大田区の寺院」による長遠寺の縁起
寺伝によれば、天仁元年(1108)宥尊の草創で、馬込村字堂寺にあったが、建武年間(1334-38)に兵火で堂宇を失って衰えた。その後文亀2年(1502)現在地に移り、元禄年間(1668-1704)快慶によって諸堂が修復された。現存の本堂は文久元年(1861)に宥円が再建したもの。明治初年までは馬込八幡神社など12社の別当を勤め、また大井来福寺以下9寺を末寺としていた。なお現在内陣に合祀している十一面観音は、もと目黒行人坂光雲寺の本尊で、神亀元年(724)行基(668-49)の作といわれ、同寺が明治初年に廃寺されるにおよんで当寺に移された。
「新編武蔵風土記稿」には村の旧記に定海という僧が、当寺を草創して後、元弘2年(1332)に寂した、と見えるからこの人が開山であろう。
いま寺で開山としているのは定尊である。この僧の事暦や寂年を伝えていないので、いつの頃とは言えないが、中興の僧であろうか。のちに元禄年間快慶が住持した頃、当寺を再興して檀林寺格としたので、この人を中興開基しているとある。(「大田区の寺院」より) (「長遠寺|大田区南馬込にある真言宗智山派寺院、馬込不動 – 猫の足あと」より)]
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「萬福寺馬込八幡宮梶原屋敷」(4-60)
萬福寺馬込八幡宮梶原屋敷(拡大図)
[図会上に長遠寺、その左下に馬込八幡宮、図会中央に萬福寺が描かれています。]
カメラ西方向が長遠寺参道です。