マーカーは一の橋・石橋供養塔です。
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切左上・「岩戸」の上方向、現在の「一の橋」交差点とおぼしき場所に、橋は描かれていませんが「字駄倉橋」と記述されています。また現在の「ニノ橋」交差点とおぼしき六郷用水に「慶岸寺橋」が描かれ、その上に「慶岸寺」が描かれています。これら橋名の変遷は昭和初年、農村救済事業で用水沿いに道路を新設したことと関係があるかもしれません。]
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で五軒家の下が現在の「一の橋」です。
一の橋・石橋供養塔
[狛江の古い道
一の橋の交差点に立つ文政六年(一八二三)の「石橋供養塔」には「東六郷江戸道」「西登戸府中道」「南家村道」「北ほりの内高井戸道」という道しるべが刻まれている。旅人は仏の像を配したこの供養塔に合掌したあと、自分の行路を確認したことであろう。
道しるべを刻んだ石塔は狛江市内に十基を数える。その多くは三叉路や十字路に立っている。こうした石に刻まれている、この道の行く手となるいろいろな地名をたどると、狛江の村を通過した人たちが目指したのがどこかということがわかる。またこうした道しるべの立つところをつなぐことによって、狛江の古い道を推定することも可能となる。
狛江を過ぎる主要な道には次の三つがあった。①江戸-世田谷-喜多見-岩戸一の橋(または駒井)-和泉-渡船場-登戸、②六郷-大蔵-喜多見-岩戸一の橋-和泉-国領(または矢ケ崎)、③高井戸-祖師谷-入間-覚東-和泉-田中橋-渡船場-登戸。
①は狛江を東から南西に横切るもので、江戸道、大山道、登戸道ともいわれた。昭和十年代までは東京方面へ下肥を汲みにいく車で早暁からにぎわった。
②は品川道、六郷道、府中道、筏道とも呼ばれた。狛江を東から北西へよぎる道である。大正頃までは、多摩川を六郷まで筏(いかだ)を運んだ筏乗りの、家路を急ぐ蓑笠(みのがさ)姿がよく見られたという。
③は狛江を南北に縦断する道である。高井戸道、鎌倉道とも呼ばれた。かつて田中橋(Google Maps)の南の用水に鎌倉橋(https://goo.gl/maps/Lzob3ob83UG2)という橋がかかっていたが、鎌倉道の伝承に基づいて名付けられたものであろう。狛江に入る少し手前の調布市入間町には、「是より泉むら子安地蔵尊二十五丁」とある百万遍供養塔(天明元年=一七八一)と「西 いづみ村ぢぞう道」とある庚申塔(文化九年=一八一二)(https://goo.gl/maps/tMsgoZWJB6M2・Google Maps)が残る。泉龍寺の子育地蔵に参詣する人が少なくなかったことを語っている。 (「狛江の古い道 – 狛江市役所」より)]
[六郷用水の水辺で遊ぶ
「おれたち尋常六年から高等科の頃といえば、学校(旧一小)の裏が堰(せき)場で、あそこへ行っちゃ水を浴びるんだ。そうすると先生が怒るんだよ。それで…先生が来て着物を持って行っちゃうんだよ。」明治時代の子どもは、六郷用水の豊かな流れを楽しんだ。
野川からの水が、ぬるまっこく少しの雨でも濁ったのに対して、六郷用水の多摩川からの水は冷たくきれいであった。
六郷用水の両岸は、ガサヤブや木立ちで覆われ、水辺に近寄りにくいところが多かった。夏ば猪方用水のために堰を支(か)う辺りには、なぜか人の背より大きく伸びたコモチシダが繁って不気味だったという。岩戸橋から一の橋の間は、大正時代頃まで流れに沿う道が全然なくガサヤブで大木も並んでいた。小川さんの自家用の川戸(かわど)にあったケヤキの大木で、おじいさんの喜平さんが自分で彫ったという臼には「明治四十五年第一月吉日新調「キ所有」と刻んである。「キ」は喜平さんのマークである。
昭和初年、農村救済事業で用水沿いに道路を新設したとき、岩戸橋のたもとにコンクリートの共同洗い場ができた。田中橋の階段の共同洗い場も、御大典記念と銘うった駄倉(だぐら)橋のスロープのそれも、同じ頃の産物である。もとから自家用のささやかな洗い場(川戸)は、ところどころにあったものの、コンクリート製の施設が、水量の減りだした六郷用水の新しい景観を造った。
戦中戦後の子どもたちは、そういう場所に魅力を感じた。水はせせらぎ程度で泳げるほどではなかったが、駄倉の洗い場の大きなスロープを自転車で走り降りて登る危ない遊びに挑戦した子もいる。多摩川からの取入口辺りは、はるか深い底にヘドロが見えて気持ち悪く、水を通すトンネルの中にはコウモリなんかがいた。トンネルの上を渡る道の両側の急なのりもコンクリートだった。途中の段まですべり降りる冒険は、下まで落ちたら登れそうもないだけにスリルがあった。 (「六郷用水の水辺で遊ぶ – 狛江市役所」より)]
[曽我宗一さん(85歳)の話
ウチは祖父の代から橋の横でよろず屋をやっていました。昔は一の橋は石の橋で、二の橋は木の橋で、ウチの屋号は石橋というんですが、二の橋の横にあったよろず屋の屋号は板橋と言ってました。新一の橋は、世田谷通りが造られたときに架けられて、バスも通るようになり、人通りも増えました。その後、軍需工場ができたときに、湘南の橋が造られました。明治23年生まれの父が若いとき、一の橋を石橋からコンクリートに改修するのを手伝ったんですが、コンクリート製の橋は北多摩郡ではいちばん早かったと聞いてます。いまある石橋供養塔はウチの父が屋根をつけたり、花を飾ったりして、守っていたんです。この橋は六郷用水がなくなくなるまで使われましたが、橋の幅が3mぐらいありましたね。用水と野川の水が合流するので、一の橋の辺りは川幅が道より広かったんです。子どものころは、水もきれいで、橋の上から飛び込んだり、よく遊んだものです。 (「市街化で次々と姿消す橋」より)]
カメラ南方向に一の橋・石橋供養塔があります。