中和泉3丁目3-3 庚申塔

マーカーは中和泉3丁目3-3 庚申塔です。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切左上・「和泉」上方向二又の下道右角が中和泉3丁目3-3 庚申塔が設置されている場所です。]

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で、「和泉」の下の二又の下道の右角が中和泉3丁目3-3 庚申塔が設置されている場所です。

[狛江を過ぎる主要な道には次の三つがあった。①江戸-世田谷-喜多見-岩戸一の橋(または駒井)-和泉-渡船場-登戸、②六郷-大蔵-喜多見-岩戸一の橋-和泉-国領(または矢ケ崎)、③高井戸-祖師谷-入間-覚東-和泉-田中橋-渡船場-登戸。
 ①は狛江を東から南西に横切るもので、江戸道、大山道、登戸道ともいわれた。昭和十年代までは東京方面へ下肥を汲みにいく車で早暁からにぎわった。
 ②は品川道、六郷道、府中道、筏道とも呼ばれた。狛江を東から北西へよぎる道である。大正頃までは、多摩川を六郷まで筏(いかだ)を運んだ筏乗りの、家路を急ぐ蓑笠(みのがさ)姿がよく見られたという。
 ③は狛江を南北に縦断する道である。高井戸道、鎌倉道とも呼ばれた。かつて田中橋の南の用水に鎌倉橋(Google Maps)という橋がかかっていたが、鎌倉道の伝承に基づいて名付けられたものであろう。狛江に入る少し手前の調布市入間町には、「是より泉むら子安地蔵尊二十五丁」とある百万遍供養塔(天明元年=一七八一)と「西 いづみ村ぢぞう道」とある庚申塔文化九年=一八一二)が残る。泉龍寺の子育地蔵に参詣する人が少なくなかったことを語っている。  (「狛江の古い道 – 狛江市役所」より)]

[田中橋交差点から松原の交差点に向かう鎌倉道の角にも、安政五年(1856年)の庚申塔があります。
次のように彫られています。左リ国領□ 右リ高井□ミち 南のぼり戸道
田中橋交差点にも庚申塔がありますから渡し場道は高井戸道につながり、田中橋から渡船場に向かいまたもう一方では泉龍寺の地蔵尊に向かったと言います。  (「品川道」より)]

カメラ北北西方向が中和泉3丁目3-3 庚申塔です。

中和泉3丁目3-3 庚申塔(Google Map 画像)