マーカーは中杉通りの鎌倉街道の追分です。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図の中内下のクロス交差が中杉通りの鎌倉街道の追分です。
中村(なかむら)
[今回の中村は、現在の「中村」だけではなく、昔一つの村であった中村北と中村南も含む。
『新編武蔵風土記稿』に古(いにしえ)は中鷺宮村といって上、下鷺宮村と並んでいたが、いつのころからか鷺宮がとれて中村となった、という言い伝えがあるが、とても信じ難いとの記述がある。中村は上、下鷺宮村(中野区)の真ん中に当たらず、伝承の誤りに違いない。地名の語源からは、親村から子村が四方へ分かれ出た場合、その中央にある親村を中村、元村、本村などと呼ぶ。
昔、良弁(りょうべん)という僧が南蔵院(中村1-15)に錫(しゃく=頭部に数個の小さな鉄の環のついたつえ)を止め、近くの塚に経典を埋めたという。南北朝時代の延文2年(1357年)のことである。その塚は良弁塚(中村3-11)として今も残っている。塚の前の道は、昔の鎌倉街道と伝えられる。中村の開村はとても古いようだ。
江戸時代、中村は高家(こうけ)今川氏の知行地であった。今川氏は幕末まで、この辺一帯を支配していた。杉並区今川の地名はその名残である。
明治22年、東隣りの中新井村と合併し、同村大字中となり、昭和7年、板橋区中村町1~3丁目となった。関東大震災後から人口の増加、市街地化が始まっていた。町では中新井、鷺宮とともに土地区画整理事業を進めた。昭和20年、事業の完成を機に中村北、中村、中村南の三つに町名地番も整理した。
昭和47年、住居表示が実施された。街区番号は従来の地番をそのまま踏襲した。このため、向山、貫井に編入された中村橋駅北側の分だけ欠番になってしまった。
南蔵院、良弁塚のほか八幡神社(中村南3-2)、首つぎ地蔵(同所)など、古社寺や史跡が多い。 (「現町名17<中村 なかむら> | 練馬わがまち資料館」より)]
カメラ位置は中杉通りの鎌倉街道の追分です。