中河原渡し

マーカーは関戸橋です。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。

関戸橋
[元来当地にあった関戸の渡し(府中市側では『中河原渡し』)の代替として1937年に架橋。橋の名は南岸の多摩村関戸(現在の多摩市関戸)より取られた。
関戸橋は1937年の架設であり2012年時点で75年が経過し老朽化が進んでいるため、現在新橋梁への架け替えが予定されている。2016年(平成28年)に着工し、16年かけて新橋への移行が行われる。旧橋の高欄と銘板の一部は橋北側にある中河原公園で保存される。
歴史
相模国を北上し武蔵国国府府中市)へ向かう東海道が、関戸の渡しで多摩川を渡った。
関戸橋下り車線(旧橋)・wikipedia-photo、「多摩川にかかる関戸橋上り車線(新橋)。府中市・多摩市」・wikipedia-photo (wikipedia・関戸橋より)]

関戸
「武蔵府中に近く、関所と鎌倉街道があったため鎌倉時代以降宿場町として栄えていた。
霞ノ関を、鎌倉幕府が和田合戦を契機に、北条一族が多摩川を盾に、北関東からの防衛上の要衝として関所を設置した。また1333年5月16日に起きた関戸の戦いの後、新田義貞軍の監視のために関戸城が築城されている。

室町時代には鶴岡八幡宮領であったが、後に後北条氏の直轄領となって松田盛秀(左馬助)が代官に任じられた。関戸宿の有力者であった有山氏が商人・道者の問屋に任ぜられるとともに関銭徴収を任されたが、後に松田氏の代官と対立し1586年に他の有力百姓5名とともに代官の追放と代わりに550貫余りの年貢請負で合意している。なお、1564年に後北条氏から2年間の期限付きで関戸宿の伝馬役が減免された際の文書には関戸にて毎月3・9のつく日に六斎市が開かれて濁酒役と塩合物役が免除されていたことが知られている。
地名の由来
1213年に鎌倉幕府によって作られた霞ノ関南木戸柵が由来ではないのかとされている。 1333年に起きた合戦は関戸の戦いと呼ばれている。  (wikipedia・関戸_(多摩市)より)]

中河原渡し
[碑文(※現在は関戸橋架け替え工事のため石碑は撤去されています。)
中河原渡し
 中河原渡しは, 中河原と 対岸の関戸(現多摩市)との間を結んでいた 鎌倉街道筋の渡しで, 中河原村が経営していたことから その名があります。 多摩川の中に 中河原村と 関戸村の境界があるため, 関戸川には 関戸村が経営する関戸渡しが設置されていました。 これらの渡しは, 昭和12年に関戸橋が竣工し, その歴史の幕を閉じました。 渡し賃は, 明治25年で平水時(2尺5寸)徒歩(一人)3厘, 馬(一頭)6厘, 人力車(一輌)6厘, 大七以上荷車(一輌)1銭などでした。 水深が5尺以上になると「川止め」(通船禁止)になりました。
         平成元年12月   府中市教育委員会

中河原公園 で見かけた説明文
中河原渡し
江戸時代に 多摩川は現在より北側の 立川段丘崖線の下, 現在の市川用水のある付近を 流れていました。 また, 現在の多摩川流域は浅川でしたので, この2つの川の間にあるところから 中河原の名が起ったといわれています。 鎌倉街道の関戸橋が 昭和12年(1937)に出来るまでは, 中河原の渡し場(渡船場)があり, 冬の渇水期には仮橋が設けられていました。 明治24年当時の記録では, 本流の渡船の川幅は 50間(約90M), 支流は2本あり いずれも架橋渡しで, その川幅はそれぞれ 15間(約27M), 11間(約20M)でした。本流の渡船渡しでは, 平水ならば 舟夫1人で足りましたが, 平水より1尺(約0.3M)増すごとに 1人の増員が必要だったようです。 渡場では, 通行人から渡船と架橋と 別々の渡賃をとっていました。 現在関戸橋の袂(府中側)には, 中河 原渡しの碑がたっています。  (「渡し碑コレクション/中河原渡し」より)]

2015年3月の画像で、カメラ北東方向に中河原渡しの碑がありますが、現在は関戸橋架け替え工事のため石碑は撤去されています。

カメラ位置は中河原公園西端の東京都道18号府中町田線(鎌倉街道)で、カメラ東北東方向に中河原渡しの説明碑が設置されています。