久米川古戦場跡碑

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久米川古戦場跡碑
[狭山丘陵東麓(現在の八国山緑地)から柳瀬川にかけて広がる一帯は、古代に武蔵国府上野国府を結ぶ東山道武蔵路が通り、鎌倉時代には鎌倉から上野国に向かう鎌倉街道が南北に縦断する交通の要衝でした。やがて戦乱の時代になると、久米川の地は入間川多摩川の中間の軍事的な拠点として重視され、元弘3年(1333)に、新田義貞鎌倉幕府倒幕のために挙兵し戦った〝久米川合戦″、建武2年(1335)に北条時行が鎌倉幕府再興のために挙兵した〝中先代の乱″や文和元年(1352)に足利尊氏北朝方と新田義興南朝方の軍勢による〝武蔵野合戦″、応永24年(1417)には〝上杉禅秀の乱″などの合戦の舞台となりました。特に有名な戦は元弘3年の〝久米川合戦″です。新田義貞の挙兵に対し、幕府軍は鎌倉街道を北上、小手指ヶ原(所沢市)で一戦交えた後に久米川へと戦場を移しました。新田義貞は久米川の戦いで勝利をおさめた数日後に、鎌倉幕府を倒しました。久米川の戦いの拠点となった八国山緑地には、新田義貞が兵馬を指揮したと伝えられる「将軍塚」があります。  (「久米川古戦場 | 北多摩散策コース | 東京都文化財めぐり」より)]

[東京都指定旧跡
  久米川古戦場
    所在地 東村山市諏訪町二丁目付近
    指 定 大正八年十月
北川と前川の合流するこの地域の低地と狭山丘陵東端の八国山(はちこくやま)の麓一帯を鎌倉時代には久米川宿(くめかわしゅく)といっていた。文永8年(1271)の日蓮の書状に「武蔵国久目河に付き・・・・」とあって、上野国(群馬県)と鎌倉を結ぶ政治的にも経済的にも重要な交通路であった鎌倉街道上の道の主要な宿駅であった。
「『太平記』によれば、元弘3年(1333)5月8日、群馬県新田町生品神社(いくしなじんじゃ)(新田義貞挙兵伝説地)から鎌倉幕府討幕のため挙兵した新田義貞の軍勢は、11日初戦の小手指河原合戦(所沢市)で鎌倉軍を破り、翌12日に南下した、新田義貞と鎌倉幕府軍との第二戦が行われたこの周辺一帯であるといわれている、『江戸名所図会巻四』によると、久米川合戦に勝った新田義貞が塚を築き旗をたてたといわれる将軍塚(所沢市)が八国山にある。標高約190メ-トルの八国山は、駿河(富士)、伊豆(天城山)、相模(箱根・大山)、甲斐(多波山)、信濃(浅間)、上野(吾妻)、下野(日光)、常陸(筑波)の八か国の山が眺められるのでこの名がついたといわれている。
久米川宿を中心とする久米川一帯は、その後も建武2年(1335)の中先代の乱や応永23年(1416)と同24年(1417)の上杉禅秀の乱などたびたび合戦の戦場となったが、近年は宅地化が進み当時の景観は偲ぶべきもない。
国の重要文化財『元弘の板碑』は八国山山麓にあったものを文化年間(1804~18)に、臨済宗福寿山徳蔵寺(東村山市諏訪町1-26)に移したものである。
           平成10年3月建設
                    東京都教育委員会  (「武蔵東村山 新田義貞軍が幕府討伐軍に大打撃を与え分倍河原に撤退させ …」より)]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図 」・「将軍塚徳蔵寺」(13-49)、「将軍塚説明・左ページ中程」(13-48)、「久米川」(13-51)、「曼荼羅淵」(13-52)、「久米川説明・右ページ3行目から」(13-53)
将軍塚徳蔵寺(拡大図)

[図会右ページ下に徳蔵寺、左ページ上に将軍塚(久米川古戦場跡)が描かれています。]

久米川(拡大図)

[北川と前川の合流点から久米川(二瀬川)と言う。]

曼荼羅淵(拡大図)

[日蓮上人佐州配流の時此川水を以て曼荼羅を書したといふ」
[図会右ページに持妙院(持明院)が描かれています。]
[持明院本堂の左隣には、曼荼羅堂と呼ばれる阿弥陀堂がある。「久米郷旧跡地誌」には、この堂にまつわる、日蓮と「久米の曼荼羅伝承」が記されている。それによれば、文久十一年に佐渡配流から赦免された日蓮は、鎌倉への帰途において、児玉郡八幡山村の児玉六右衛門へ自筆の曼荼羅を授ける。日蓮と別れた六右衛門は、柳瀬川のほとりに堂を建立し、曼荼羅を祀ったという。以来、その堂は曼荼羅堂と呼ばれるようになり、のちに亀ヶ谷から持明院へと移築された。  (「境内案内 | 持明院」より)]

久米川(二瀬川)に架かる勝陣場橋上のカメラです。

久米川古戦場跡碑前のカメラです。

将軍塚案内板前のストリートビューで、右の石碑は元弘青石塔婆所在跡碑で、この場所に国指定重要文化財の「元弘の板碑」があったところです。(「元弘青石塔婆所在跡 所沢市ホームページ – 所沢市役所」より)

将軍塚碑前のカメラです。