井伏鱒二旧宅

マーカーは井伏鱒二旧宅です。

井伏鱒二旧宅
[荻窪駅北口から青梅街道を渡り、北に向って日大通りを過ぎ、清水町に出ると緑に包まれた角地に紅殻格子の門戸(清水町1丁目17)が見えてくる。高校の教科書でもよく知られた「山椒魚は悲しんだ……」ではじまる「山椒魚」の著者、井伏鱒二(1898-1993)が終生住んだところ。昭和2年、一面麦畑だったこの地に家を建て、平成5年95才で沒するまで、人間を愛しユーモアあふれる作品を書きつづけた。「屋根の上のサワン」「黒い雨」「荻窪風土記」などは昭和文学の代表作と言われている。「斜陽」や「桜桃」「人間失格」で知られる太宰治(1909-1948)はこの井伏宅で結婚式を挙げた。愛弟子の小沼丹(1918~1996)の随筆「清水町の先生」の中で「当時の井伏さんのお宅の所番地は杉並区清水町24番地であった。井伏さんのことを清水町の先生、清水町先生と云ったりするが、それは町名に由来する」と書いて井伏鱒二との交遊ぶりを描いているが、それには将棋をはじめると勝つまでもう一番と止めない井伏に閉口したエピソードが記されている。  (「asuna – 杉並・中野情報 杉並文学散歩-01 荻窪界隈」より)]

[井伏鱒二は、昭和2年(1927)5月、29歳の時に早稲田鶴巻町の下宿「南越館」から荻窪へ越してきた。新居建築中の約半年間を荻窪駅(北口)に近い「平野屋酒店」に下宿した。以来、平成5年(1993)7月10日、95歳の天寿を全うするまでの67年間をこの地に住み、数多くの文人や地元の人々との交流を重ねながら執筆活動を続けた。
井伏の新居の住所は、「東京府豊多摩郡井荻村下井草1810」(現表示「東京都杉並区清水」の一角)である。 荻窪駅から、教会通りを抜けても青梅街道を歩いても、徒歩約10分である。また、新居建築中の約半年間を過ごした下宿先 平野屋酒店は、現在は公生堂ビル(Google Maps)があるあたりだった。  (「井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界 – 井伏鱒二と荻窪風土記と阿佐ヶ谷文士」より)]

[井伏は、郷里の兄に<明窓浄机の境地>を訴えて建築費を送ってもらって、昭和2年5月から10月にかけて新居を建てた。この間下宿生活をしたのが、「平野屋酒店」の二階である。
新居の建築は、知人に建築費の全額を支払って任せたが、建前をすませたところで大工の棟梁が雲隠れしてしまった。 <初めからこちらを嵌める腹で、・・(中略)・・この通俗な手に乗せられた自分の甘さがいまいましい。> と無念の心中を表わしている。
高利貸から借金して、新居はいわゆる安普請となったが出来上がり、下宿生活は10月にかけて終わった。この時に結婚して新居での生活が始まったのである。
「郷里の兄の援助があって高利貸には全額返済したが、平野屋の酒代ばかりでなく米屋や、炭屋、質屋にいつも借金があって、子供が生まれてからも毎月のように月末の支払がうまくいかなかった。」(要約)と経済的に苦しい時を過ごしていたことを記している。
それは、一方で収入にはなりにくい <習作に身をいれることにした> ことによる。  (「「山椒魚」(荻窪風土記-平野屋酒店) – 井伏鱒二と荻窪風土記と阿佐ヶ谷文士」より)]

カメラ北北西方向が井伏鱒二旧宅です。
[当時の井伏家(昭和2年9月竣工)は、昭和34年4月の建替工事を前にして取り壊された。写真は昭和34年7月に完成した井伏家。 (「荻窪清水町 井伏家に身を寄せる太宰治の元妻小山初代 井伏鱒二「琴の記 …」より)]