マーカーは井草観音堂です。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
井草観音堂
[井草観音堂は、「久保の観音様」ともよばれ、江戸初期に建立されたといわれています。お堂の中には如意輪観音と地蔵菩薩が納められ、それぞれ高さが1メートルの舟形をした石塔に浮彫りにされています。2基とも、造立年号が寛文7年(1667)と刻まれており、区内に現存する石塔の中ではかなり古い年代のものです。
その当時、この辺りは今川氏の所領となっており、下井草村字久保と称されていました。このお堂や石塔は、此治を開墾した農民によって造立されたものと思われます。
観音塔には、「おくに」「おたつ」など女性の名前と思われる文字がかすかに見られるので、これらの女性を供養するために造立されたものと思われます。また左下には「榎本半内」と願主名が刻まれています。
地蔵塔には、同行16人と刻まれていますが、これは、下井草村久保と向井草地区の16軒の農家が講中をつくり造立したものといわれています。この地蔵菩薩は地元では「子育児像」とよばれ、観音様とともに幼児の虫封じ・歯痛・夜泣きにご利益があるとして親しまれてきました。
明治37年・38年、日露戦争の頃、付近一帯に疫病が大流行したので、村中で「観音様」と「お地蔵様」の供養をしたところ、次第に病気が直って一層進行が盛んになったという話が伝えられています。
また、昭和初期まで、「念仏講」が伝えられ、ソウバンとよばれる大きな鉦をたたき講中の家々を供養してまわった後、このお堂で「百万遍のお数珠」とよばれる大きな数珠をまわしながら念仏供養するのがならわしだったといわれています。
現在のお堂は、昭和56年に改築されたものです。 (「48 井草観音堂 【寺院】(井草1丁目3番14号)|杉並区公式ホームページ」より)]
カメラ南南東方向が井草観音堂です。