マーカーは井荻町土地区画整理碑です。
「東京府豊多摩郡井荻村 (13B0080001) | 歴史的行政区域データセットβ版」
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1917~1924年の地図に「井荻町土地区画整理事業」以前の井荻村、1927~1939年の地図には「井荻町土地区画整理事業」中の井荻町、1944~1954年の地図には「井荻町土地区画整理事業」後の杉並区・井荻地区が描かれています。
井荻町土地区画整理碑
[この後ろの、柵の中にある石碑は、昭和15年5月1日に区画整理事業の完成を記念して、井荻町土地区画整理組合によって建てられたものです。井荻地区の土地区画整理事業は井荻村全域を区画整理の対象としたもので、当時の井荻村長だった内田秀五郎らによって計画されました。大正14年には内田を組合長として井荻村土地区画整理組合(後には井荻町)を設立し、10年後の昭和10年3月に区画整理事業を完了させました。整理総面積は888町歩(約888ヘクタール)に及び単一町村独自で行った事業としては、全国屈指の大規模ですぐれた街づくりでした。
碑の正面にはこの区画整理事業の経過を、裏面には組合役員132人の名が刻まれています。撰文は石川兼六、揮毫は正面篆額林博太郎、裏面篆額岡邨恒夫、正面碑文及び裏面人名は持田貫道です。
高さ617.5センチの棹石(粘板岩)と高さ約100センチの台石(花崗岩)からなる当碑は、区内にある記念碑としては最大のものです。棹石は石巻、台石は筑波山の産で、現地より特別仕立ての貨車で荻窪駅まで運び、駅からこの地までトラックで牽引して運んだということです。緑豊かなこの敷地は、宮司及び氏子の方々のご協力を得て選ばれたものです。
本碑は、東京近郊農村であった井荻地区が都内でも有数の郊外住宅地として発展する基礎をつくった区画整理事業の完成を伝える記念碑です。
平成14年3月 (「149 井荻町土地区画整理碑 【その他】(善福寺1丁目33番1号)|杉並区ホームページ」より)]
「登録文化財 有形文化財|杉並区公式ホームページ – 井荻町土地区画整理碑(いおぎまちとちくかくせいりひ)」よりコピー
大正から始まった区画整理
[杉並区内には、整然とした住宅地がいくつかあり、その中には昭和戦前期の土地区画整理事業で誕生した街が存在する。代表的なものは、旧井荻町全域(現在の杉並区北西部)で行われた、約888haに及ぶ土地区画整理事業だった。
内田秀五郎が村長を務めた井荻村(後の井荻町)では、1922(大正11)年から土地区画整理に先駆けて、耕地整理が行われた。これは、同年に開業を果たす「西荻窪駅」の誘致とともに、将来の住宅地開発を目的とするものであった。このときの耕地整理は、約40haと小規模であったが、現在の「杉並区立井荻小学校」東側の「善福寺川」には、事業を記念して名付けられたと思われる「耕整橋」(Google Maps)が残されている。1925(大正14)年には、「井荻村土地区画整理組合」が設立され、8工区に及ぶ「井荻村土地区画整理事業」が始まり、1935(昭和10)年に完成した。この間、1926(大正15)年に「井荻村」は「井荻町」と変わり、1932(昭和7)年に東京市杉並区の一部となった。
一連の事業に関連して、1930(昭和5)年、内田らが尽力したことで「善福寺池」周辺が風致地区に指定されている。現在、武蔵野の面影を残す自然が保たれている「善福寺公園」内には村の繁栄のために奔走した内田秀五郎の銅像(Google Maps・https://goo.gl/maps/T7VEFkY6gZp)があり、「井草八幡神社」には「井荻町土地区画整理碑」が建てられている。
また、第2工区の事業は、1931(昭和6)年に完成し、記念となる公園を築造した。これが1937(昭和12)年に開園した「荻窪公園」(Google Maps)。長方形をした細長い公園は、杉並区立公園としては最古で、現在も荻窪二丁目にあり、住民に親しまれている。昭和戦前期には天沼、馬橋など区内各所で、規模の小さい土地区画整理も行われている。 (「4:著名人の邸宅から、郊外住宅地としての開発へ ~ 荻窪 | このまち …」より)]
カメラ西方向玉垣間の扉向こうに井荻町土地区画整理碑があります。
井荻町土地区画整理碑(Google Map 画像)
井荻町土地区画整理碑案内板(Google Map 画像)