人見街道案内板

マーカーは人見街道案内板です。

人見街道案内板
[人見街道
 この前の道は、人見街道です。浜田山駅北側の、井の頭通りの分岐を起点に高井戸東高井戸西久我山を通って府中若松町新小金井街道に接する約十二キロの都道です。うち区内延長は約三・三キロです。路線名は府中の人見村にちなむもので、昭和五十九年四月に正式な通称名となりました。その際旧来の人見街道(上高井戸の甲州街道から分かれ区南西部の区境辺を走っていた)の道筋変更がはかられ、区内を含む上の部分が新しく人見街道に組み込まれたのです。これが久我山街道と呼ばれていた道です。
 この道は、区内の古道の一つで、武蔵国府府中(今の府中市)から大宮(今の埼玉県)に行く大宮街道、下総の国府(今の市川市)へ通ずる 下総街道の道筋であったと言われ、近世以前は東西を結ぶ重要な道路であったと考えられています。江戸時代に入って甲州街道ができると、 脇街道的な性格を強め府中道などと呼ばれました。近くの久我山五の九の辻にある石塔には「これよりみぎいのかしらみち」とあり、井の頭への道として利用されていたこともわかります。
 その後、昭和初年に久我山駅辺の直線化や拡幅などの改修が行われ今日に至っています。道筋には、都の天然記念物横倉邸のケヤキ並木を始め、古刹松林寺、大熊稲荷神社(※廃社)・、二基の庚申塔(享保七年銘道標付庚申塔牟礼橋庚申塔)などの文化財が点在し、その歴史を証言しています。
 平成六年三月  杉並区教育委員会  (「人見街道 – Monumento(モニュメント)」より)]

[続いて右岸を走ると、神田橋、みすぎ橋、 緑橋を経てやがて宮下橋の袂にくる。橋の袂には宮下橋公園というちょっとし た小公園になっている。神田川を改修した時の旧流路が公園になったという。 宮下橋を南へ20~30mも向かうとすぐ大熊坂と呼ばれる緩やかな上り坂と なり、上がりきると人見街道に出る。その街道沿いすぐ左に林の繁る小丘があ り、丘の上に大熊稲荷がある。猫の額程の境内には大熊氏が安政3年に造立し た正一位稲荷大明神の石塔と、やはり大熊氏が弘化5年に造立した富士山仙元 大菩薩の石塔が立っている。
森泰樹氏の『杉並の伝説と方言』によれば、大熊氏は久我山の旧家で、先祖は 大熊修理亮景勝という小田原北条氏の重臣であったという。天正18年(1590)小田原城豊臣秀吉に攻められて落城した折、大熊氏は若君を守ってこの地逃れきて、若君を永福寺に預けて匿ってもらい、自らは付近に身を隠していたが、若君は敵方に発覚して殺されたのでやむなく久我山に土着したのだという。  (「多摩のジョギング道-井の頭池から神田川水辺の道へ」より)]

カメラ西方向・交差点左の広場フェンスに人見街道案内板が設置されています。

大熊稲荷神社・2016年2月のストリートビュー

大熊稲荷神社跡・2018年6月のストリートビュー