光明院

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光明院
[光明院(こうみょういん)は、東京都杉並区上荻二丁目にある真言宗豊山派の寺院。
創建は奈良時代以前と伝わっており、杉並区でも屈指の古刹と言われている。正式名称は慈雲山荻寺光明院といい、駅名にもなり当地付近の地名である・荻窪の由来になった寺と言われている。
言い伝えによると奈良時代以前の和銅元年(708)に名僧・行基作の仏像を背負って遊行していた僧がこの地を通りかかった際に、急にその仏像が重くなり、運べなくなったのでまわりがでいっぱいだった当地にお堂を作って仏像を安置したのが当寺院の始まりであると言われている。あたりがだらけだった当寺院は荻寺と呼ばれ、それが荻窪の地名のルーツになったと言われている。
本尊千手観音南北朝時代の作とされており、境内には本尊と同時代に作られたとみられるなどが出土しており南北朝時代には当寺院の基礎は出来ていたと言われている。
江戸時代は本尊は「荻窪の観音様」と言われており、人々から厚く信仰されていた。
明治時代になり付近に甲武鉄道(現在の中央線快速)が通ることになり、本堂が移動した。
山門・wikipedia-photo  (wikipedia・光明院_(杉並区)より)]

天和二年銘手水鉢
[この手水鉢は、安山岩でつくられ、全体としてどっしりとした重厚感を与えるものである。また、底部は直線状であり、江戸時代前期の様式である。正面には開花した大ぶりの蓮華と、その左右に未開の葉を厚く浮彫りしてあり、左右面にはともに半ば開いた蓮華と葉を同じく厚く浮彫りしてある。いずれも雄渾な図柄で、江戸時代前期の石造品の特色を示している。一般に江戸では元禄年間(1688~1703)以前の石造遺物は少ないといわれており、江戸郊外においてはさらに稀少となる。
 本資料は、手水鉢としては杉並区内では最古の紀年銘を持つもので、銘文には「萩(ママ)窪村」(荻窪村)の村名が認められ、造立の主旨として元心という人物の菩提の為であること、願主、石工、大工、当寺住職の11名の名が記載されている。大工名があることは、この手水鉢の造立と同時に水盤舎も建立されたことを示している。石工は江戸市中木挽町の者で、この手水鉢の出来具合からみても、当時一流の優品と考えられる。これらのことから、この手水鉢の造立に当っての全体の費用はかなりの額に上ったであろうと推測され、これを喜捨した富裕な人達は荻窪村の中心的百姓であったとみられる。
 銘文にみえる「當寺朝善」は、光明院歴住墓地に朝善の墓石(元禄3年正月6日没)があることから、光明院住職と考えられる。本資料は、天保11年(1840)の火災によって記録類を焼失したため、不明な部分の多い江戸時代前期の光明院の寺史の上でも重要なものといえる。
 現在、光明院本堂前の水盤舎の中、台石の上に安置されており、保存状態は良好である。上部の池の底に接続された水道の鉛管を通じ、常時浄水が供給され、水は溢れて手水鉢の表面を流下しており、石材が良質であるためか、殆ど損傷は見られない。  (「杉並区教育委員会 – 平成23年度 指定登録文化財」より)]

[「光明院」は、和銅元年(708)創立の伝承がある真言宗の古刹で「荻寺」と呼ばれ、「荻窪」の地名の由来になったともいわれている。
南北朝時代(14世紀)作の千手観音像がご本尊で、「荻窪の観音様」と親しまれ、『杉並風土記 上巻』には、大正初年頃までは境内で「馬がけ」や「大護摩」「盆踊り」といった大規模な行事が盛大に行われていたが、境内が狭くなって衰えていったとある。
現在、線路に接して小さく位置しているが、往時には七堂伽藍の大寺院であったと伝えられ、『新天沼・杉五物がたり』によれば、広大な寺領地は明治政府の宗教政策で大きく減らされ、次いで、現中央線敷設時また荻窪駅設置に際して所有する土地を提供、さらには線路の複々線化、環八道路拡幅、立体交差化で削られて現在に至っている。
線路を挟んで反対側に光明院の墓地があり、線路下に作られた狭いトンネルで繋がっていることで、わずかにその歴史が偲ばれるが、これらの経緯を知る人も今は少ない。  (「「山椒魚」(荻窪風土記-平野屋酒店) – 井伏鱒二と荻窪風土記と阿佐ヶ谷文士」より)]

光明院ホームページ

荻窪の地名になった「荻」の話 <荻窪の街の不思議1・荻窪の歴史的なぜ」、「光明院|すぎなみ学倶楽部 (除夜の鐘)

光明院 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が光明院山門です。

光明院を東西に横切る自由通路・荻の小道のストリートビューです。

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