マーカーは六ヶ村分水・追分です。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
「東京府15区8郡時代の町村区分図 – 豊多摩郡杉並町・番地入最新杉並町全図(昭和6年)」(地図右上・字四面道145番地、155番地の間が六ヶ村分水・追分で、緑の実線が桃園川の引水水路です。)
六ヶ村分水・追分
[天沼村は幕府直轄領(天領)として、寛永二(1625)年に行われた検地により、村高を一一五石と定められた。村高とは、土地の良否によって田畑の収穫率を定め、反別に乗じて計算した石高を全村集計する一村単位の公定総生産高のことで、村の年貢や課役の基準となるものである。
寛永一二(1635)年は、天沼村にとってそれまでの村意識を変える、朗報のもたされた年であった。天沼村全体が山王権現の社領と決められたのである。このとき、天沼村とともに阿佐ヶ谷村と堀之内村が、少し後れて下荻窪村が山王権現社領になった。社領の時代はこれ以後、明治維新まで二三〇年間つづく。
桃園川流域の水田は、弁天池の湧水量が少ないので、田植えは雨水がたよりだった。水源に近い天沼村でも、稲の生育期の旱魃は何よりも恐ろしかった。
宝永四(1707)年、千川用水の水を桃園川に分水する願いが許されて、関村(練馬区関町 – 伊勢橋・旧六ケ村分水口)から青梅街道の北側沿いに用水路が掘られた。水路は阿佐谷南三丁目の杉七小学校の南側付近で街道から北に折れて、桃園川に注いだ。水路の水は、途中の天沼三丁目あさひ銀行のわきにあった堰からの枝堀で弁天池にも流れ込んだ。そのため、桃園川のことを「千川分水」ということもあったようである。矢嶋又次さんのかかれた「明治末期より大正初期の北口通り商店街」の地図にも、青梅街道に沿って半兵衛堀田用水路と相沢堀田用水路の名称が書きこまれている。どちらも用水路の工事を推進した地元有力者にちなむ呼び名であろう。
明和八(1771)年は異例の旱魃で玉川上水の水が不足し、玉川上水から引いている千川上水も飲料水以外の用水を止められた。千川上水に灌漑をたよる村々が給水の再開を幕府に願い出たとき、天沼・阿佐ヶ谷・下荻窪三か村の嘆願書に、山王御神撰米の奉納に影響が出る旨が述べられていたことから、幕府はやむなく、制限を緩和したといわれる。
(「江戸時代 – 天沼8町会」より)]
[昭和二年の五月から十月にかけて、私は井荻村のこの場所にこの家ができるまで(井伏鱒二旧宅)、四面道から駅よりの千川用水追分に近い平野屋酒店の二階に下宿した。(今、公正堂の所在する場所である)千川用水追分は田用水追分とも言い、水路が半兵衛堀と相沢堀に分かれている分岐点である。現在、この水路は全長何キロかの暗渠でつながっている。 (井伏鱒二著 – 荻窪風土記」抜粋)]
カメラ位置は六ヶ村分水・追分で、カメラ北北東方向が桃園川への分水路で、分水路右が公生堂ビルでこの場所に井伏鱒二が下宿した平野屋酒店があった。