マーカーは円光院です。
円光院
[練馬区教育委員会掲示による円光院の縁起
円光院は、南池山貫井寺といい、真言宗豊山派(豊島八十八ヶ所霊場第11番札所)のお寺で本尊は不動明王です。昔、寺の南に大きな池があったので「南池山」と号し、土地の名が貫井であるので「貫井寺」と称したといいます。寺の伝えによると天正13年(1585)没した開山・円長法師は密法修行の折、にわかに腰脚痛を患い、あらゆる治療を施したが効果がなく、一念をこめて七日間の断食をして、武川大鱗山の子聖権現を遥拝し平癒を祈願しました。その満願の日の暁、霊夢により宝石を得て患部を撫でさすると、たちまち快癒したので、感きわまってここに堂合を建て貫井寺と称し、その近くに子聖大権現を勧請して霊石と共に奉安しました。子聖権現は十二年に一度、子の年・子の月・子の日にご開帳され、また観音堂に安置された観世音菩薩は子ノ聖観世音と称し、馬の護り本尊として信仰を集め、毎年春に境内で「馬かけ」の行事が行なわれ賑わいました。昭和20年5月戦災で本堂などを焼失、昭和38年再建が成り、昭和55年12月、観音堂ならびに境外仏堂(地蔵堂)などが修復再建されました。(練馬区教育委員会掲示より) (「猫のあしあと – 円光院」より)]
子ノ聖観世音碑(ねのしょうかんぜおんひ)
[高さ1.75メートルの角柱型の石碑です。文化7年(1810年)の銘があり、下部には明治13年の銘が陰刻されています。
円光院の草創ともいわれる子権現(ねのごんげん)が江戸時代には境外の祠に祀られ、信仰を集めていました。子ノ聖観世音碑は十一面観音ですが、近在の人々は馬頭観音としても信仰し、明治期には「馬かけ」行事も行われていました。この標石は江戸時代から明治期にかけて子権現、馬頭観音信仰が盛んであったことを伝えるものです。画像リンク
平成13年度区登録 (「練馬区ホームページ – 子ノ聖観世音碑 (ねのしょうかんぜおんひ)」より)]
カメラ北北東方向が円光院山門で、カメラ北西方向ブロック塀角に子ノ聖観世音碑が、カメラ東北東方向に六地蔵が祀られています、
円光院本堂前のカメラです。