分倍河原古戦場碑

マーカーは分倍河原古戦場碑です。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図を見ると分梅河原古戦場が描かれています。

分倍河原古戦場碑
[分倍河原古戦場碑について
分倍河原古戦場
文永(一二七四)、弘安(一二八一)の役(元寇)を経験した頃、北条執権政治は根底からゆらぎ御家人救済の方法として徳政令を発布したが、これがかえって政権破滅の速度を早めた。元弘三年(一三三三)五月、新田義貞執権北条高塒鎌倉に攻めるため、上野武蔵越後の兵を率いて上野国新田庄から一路南下し、所沢地方の小手指ヶ原で北条方の副将長崎高重桜田貞国を破り(五月十一日)、さらに、久米川の戦で優勢に立った。北条方は分倍に陣を敷き、北条泰家を総帥として新田勢を迎撃した。新田勢は敗れて所沢方面に逃れたが、この時、武蔵国分寺は新田勢のために焼失させられたという。その夜(五月十五日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、十六日未明再び分倍の北条勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻め二十二日に鎌倉幕府は滅亡した。(東京都教育委員会掲示より)  (「分倍河原古戦場碑|府中市分梅町の名所旧跡 – 猫の足あと」より)]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「分倍河原陣街道 首塚 胴塚」(10-14・左ページ)、「分倍河原 三千人塚 陣街道解説」(10-15)
分倍河原陣街道 首塚 胴塚(拡大図)

分倍河原古戦場碑 – Google Map 画像リンク

分倍河原古戦場碑前のカメラです。