マーカーは医王寺です。
医王寺
[この寺は明星山遍照院医王寺といいます。寺伝によると、承和元年(834)弘法大師が東国を巡行した際、箱根山で彫った薬師如来像を海星和尚がここ上高井戸に草庵を建て、本尊として安置したといわれています。また本堂は西に向いており、一名西向茅野薬師ともいわれます。
墓地から出た板碑の中に、文和5年(1356)と応永7年(1400)のものなどがあり、開山の古さを物語っています。
江戸時代以降、この寺が「おめだま薬師」「眼病にきく薬師様」といわれ、寺の境内に毎月12日、“十二日市”という市が開かれ、現在では毎年10月12日「おめだま薬師大護摩供」が修行されて参詣者でにぎわっています。また旧境内の薬師の池は湧水であったので渇水することがなく、また眼病平癒のため放した魚が一眼になるという伝説があります。
明治の初め廃寺になりましたが、本堂は高井戸学校の前身であった高泉学校の仮校舎として使用されました。薬師堂だけは関東大震災の大正12年(1923)まで、現在地より南側の甲州街道に面したところに残っていました。その後大正13年、今の場所に再興しました。 (「5 医王寺 【寺院】(上高井戸1丁目27番15号)」より)]
「医王寺|杉並区上高井戸にある真言宗智山派寺院 – 猫の足あと」
[明治八(1875)年に、中野村の宝仙寺を仮校舎として第六小学区第九番公立桃園学校(現中野区立桃園第一小学校の前身)が開校した。しかし、杉並区域からは遠すぎるので、桃園学校一番分校が馬橋村の清見寺(通学範囲は馬橋・高円寺・阿佐ヶ谷・天沼・田端・成宗村)、二番分校が上井草村の薬王院薬師堂(上井草・下井草・上荻窪・下荻窪村)に設置された。このとき杉並区域では、ほかに郊西学校(五日市街道沿いの地区 ※大宮前新田、慈宏寺内)と高泉学校(甲州街道沿いの地区 ※上高井戸村、医王寺内)が開校している。そして翌九(1876)年に、桃園学校一番分校は第三中学区第二十五番公立桃野小学校、二番分校は第二十六番公立桃井学校として、それぞれ独立した。現在の杉並第一小学校、桃井第一小学校の前身である。 (「天沼8町会 – 明治時代」より)]
杉並区立高井戸小学校
[1875年10月8日 – 高泉学校(上高井戸村、医王寺内)・郊西学校(大宮前新田、慈宏寺内)として認可。
1891年6月19日 – 高泉学校と郊西学校が合併し、東京府東多摩郡高井戸尋常小学校として新たに発足。 (wikipedia・杉並区立高井戸小学校より)]
カメラ北東方向が医王寺山門です。
カメラ東方向が本堂で、カメラ南方向が薬師堂です。