マーカーは千川上水跡・久山橋です。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
[久山橋下流
立野町の屋敷林から一部暗渠の石神井西中付近、田中橋を経て久山橋付近。ここもかつての沿川の面影が漂う。左岸に畑が広がり、そこへ渡るために架けられた木橋も懐かしい。
竹下橋
久山橋からの畑は竹下橋で終わりを告げる。ここは上石神井村への分水口跡にあたり、水神様だろうか小さな祠がある。流れが右に曲がる先が開渠区間5kmの終点である。 (「緑と水のひろば 60号(PDF) – 公園へ行こう!」より)]
[車の往来が激げしい吉祥寺通りと交差する「千川橋跡」の横断歩道を渡ると、また閑静な風景が開けます。
「田中橋」を過ぎ「久山(きゆうやま)橋」 にさしかかると、左側に尾崎家のキャベツ畑が広がります。ここから下流の 「竹下橋」までの両岸は堀割のままの形状で、三百余年前開削直後の千川上水の風景もこうであったろうと、ふと想像力をかきたてられます。
開渠区間の終点が、この先の青梅街道です。 (「千川上水現況調査報告(平成16年3月発行)(PDF:7820KB) – 練馬区」より)]
千川上水跡
[千川上水は本郷・下谷・浅草方面の飲料水として、元禄9年(1696年)に玉川上水から分水された上水です。設計は河村瑞軒(1617~1699年)と伝えられ、仙川村出身と伝えられる徳兵衛・太兵衛が工事を請負いました。分水口から巣鴨までの費用は、1千340両余りを要し、江戸幕府が支出したのはこのうち860両余りに過ぎませんでした。そのため、2人は私費を投じて工事を成し遂げました。2人は、それらの功によって、千川の姓と帯刀を許され、子孫は代々千川上水の取締役を務めました。開通して10年後の宝永4年(1707年)には、上水沿いの20か村の農民が、この水を田に引くことを許され、明治以降は印刷局や王子製紙などで工場用水として大量に使われました。現在でも消火用水などに使われていますが、大部分が暗きょとなり、素掘りのままで残されているのはこの付近だけです。画像リンク
昭和63年度区登録 (「練馬区ホームページ – 千川上水跡 (せんかわじょうすいあと)」より)]
千川上水跡・田中橋
千川上水跡・久山橋
千川上水跡・竹下橋