四面道

マーカーは四面道交差点です。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年の地図に「天沼陸橋」造成前の荻窪駅周辺、1944~1954年の地図には「天沼陸橋」造成御の荻窪駅周辺が描かれています。

四面道
[四面道は、天沼下井草上荻窪・下荻窪村の接点にあたる青梅街道の四つ辻に秋葉神社常夜灯(嘉永七<1854>年の銘があり現在は荻窪八幡神社に移設)が据えられていて、四か村を照らしたから四面塔と呼ばれた説と、萩寺光明院のお堂が四方に面していたので四面堂になったという説があるが、それがなぜ天沼村の地名になったかは明らかではない戦前の古老はシメントウと、濁らずに発音する人が多かったそうである。

青梅街道
江戸城と青梅街道 徳川幕府が最初に着したのは城を中心に据えた町づくりで、江戸城の外郭とその城下町は全国の統一者にふさわしい偉容と規模とを必要とした。工事の夫役として諸国からおびただしい農民が動員され、物資輸送の道路整備が急がれた。
 城壁の漆喰塗(しっくいぬ)りに欠かせない石灰は、奥多摩成木(なりき)村小曽木(おそぎ)村(どちらも現在青梅市)で採掘した石灰石からつくる。大量の石灰を緊急に江戸に運ぶ必要から、慶長十一年(1606)年、あわただしく武蔵野台地を切り開いて一筋の新道が設けられた。突貫工事の陣頭指揮をとったのは、後に佐渡金山の開発で辣腕(らつわん)をふるった大久保石見守長安である。
 新道は成木街道と呼ばれ、江戸城の完成後も、大名屋敷や町家の蔵の壁材として、石灰の需要はますます増した。沿道の中野田無・箱根崎(現在瑞穂町)村は石灰運搬のために宿駅と同じ扱いを受け、近隣の村々では使役の農民たちがかり出された。
 十八世紀初めの江戸は人口が100万を超え、当時世界最大の都市であったが、狭い土地に木造家屋が密集するにもかかわらず水利が悪いので、明暦の大火をはじめ、しばしば大火事に見舞われた。そのため、石灰輸送の最盛期が終わつても、奥多摩の山林から青梅に集められた杉材を運ぶ馬役がひんぱんに通ったので、成木街道はいつしか青梅街道と呼ばれるようになった。
青梅街道の道筋 青梅街道は内藤新宿追分甲州街道から分かれ、柏木角筈(つのはず)・中野・高円寺・馬橋・阿佐ヶ谷成宗・天沼・下荻窪・上荻窪・下井草・上井草の村々を通過して、田無村を経て青梅村に至る。その先は多摩川の上流沿いに大菩薩峠(だいぼさつとうげ)超えて甲州の塩山に通じるので、別名を甲州裏街道とも呼ばれた。途中は関所の取り締まりもゆるく、大名行列にぶつかる心配もないので、甲州まで旅をするには青梅街道を行くほうが気楽であった。また、御岳講や秩父巡礼の旅にも利用されたようである。
 当時の青梅街道の道筋は、今の天沼陸橋が通っているところではない。区役所方面から見て、天沼陸橋のたもとから左に折れて中央線の南側沿いに荻窪南口へ向かう道があるが、これが江戸時代の青梅街道だった。現在はその下を営団地下鉄(現東京メトロ丸ノ内線)が走っている。旧街道は荻窪駅の近くで進路を西北西にとり、現在の荻窪駅北口交番の南側付近を通って四面道のほうへ抜けていたのである。  (「天沼8町会:天沼の歴史 天沼の歴史を古代から紐解く – 江戸時代」より)]

カメラ位置は四面道交差点です。